329.反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」 草薙龍瞬

ブッダが教える「反応するな、まず理解せよ」という態度をつらぬけたからのように思えるの


生きていれば、てごわく、厄介な相手にも、遭遇しますよね。  ただ、もしこちらが相手と同じ反応を返せば、相手との反応の応酬になってしまいます。  このとき問題は、相手に負けないことや、 我 を通すことではありません。反応することで確実に「自分の心を失う」ことなのです。 「つい反応してしまう」状況にあってこそ、あえて大きく息を吸って、吐いて、覚悟を決めて、相手を「ただ理解する」ように努めましょう。そして、心のもう半分を、自分の内側の反応を見ることに使うのです。  それは決して簡単ではないかもしれません。しかし自身の心を失わないために、そして、もしかしたら相手とわかり合えるようになるかもしれない〝可能性〟のために、必要なことかもしれないの

 

心の内側を見つめて、なるべくクリアな心を保つという〝仏教的な〟生き方にてらせば、「しなくていい判断は、しないほうがいい」 ことになります。  人間にとって一番大切なのは、「心に苦悩を溜めない」ことです。どんな幸福感も、苦悩(という反応)によって、いつも台無しになってしまうからです。  とすれば、苦しみを引きずることになる相手への判断も、ないほうがよいのです。相手のことを思い浮かべて、「あの人はここがダメ」とか「あんな性格ではきっと苦労するに違いない」と判断しつづけることは、自分自身にマイナスなの

 

もちろん、相手に「気の毒」でもあります。「相手と理解し合える可能性」も、減っていきます。今は難しいかもしれませんが、お互いをわかり合う可能性は、いつも残されているものです。しかし、もし相手への判断、断罪、結論を出しつづければ、その可能性を殺してしまうことになりかねません。  判断には、さまざまなマイナスがあります。相手が身近で、大切な人であればあるほど、余計な判断はしないにかぎり

 

あの人は、わたしを罵った、わたしを否定した、わたしに勝利した、わたしは奪われた、と思いつづける人は、(記憶に反応して怒りつづけているのだから)怨みが止むことはない。 ──ダンマパダ〈ひと組の詩〉の

 

「過去を引きずる」というのは、仏教的には「記憶に反応している」状態です。ここは大切な点なので、ぜひ理解して


たとえば、相手と言い争ったとします。最初の「怒り」の対象は「相手」かもしれません。でもその場を離れてもなお、相手のことがアタマから離れず、ムシャクシャ、モヤモヤ、イライラしているとしたら、その原因は「相手」ではありません。自分の中の「記憶」です。   過去を思い出して、「記憶」に反応して、新しい怒りを生んでいる ──それが、いつまでも怒りが消えない本当の理由です。その怒りに実は、「相手は関係がない」の

 

もし仏教を実践して、「反応しない達人」になれたら、どんなバトルを繰り広げても、トイレに入っただけで、あるいは相手の向こうにある「部屋の壁」を見るだけで、「怒りが消える」ようになるかもしれません。これは大げさなようで大げさではありません。少なくとも、帰り道では、「過去は過去」と割り切って、すっきりできるようになり

 

もしイヤな記憶がよみがえったら、その 記憶 への「自分の 反応」を見てください。相手と別れ

 

なお腹が立って止まらないときは、「これはただの記憶」「反応している自分がいる(相手は関係ない)」と冷静に理解して、感情を静めるように心がけましょ

 

心が無常なら、人も当然、無常です。  私たちは、自分も、相手も、「昨日と同じ人物」だと思っています。昨日会った人は、今日会っても、同じ人。でも実はその人は、背格好や、名前や、仕事や、住んでいる場所は同じかもしれませんが、本当は「別人」なのです。だって「心は変わっている」から

 

心が変わっているなら、「同じ人」だと、どうしていえるでしょうか。私たちには、過去の記憶もあるし、「あの人はこういう人」「わたしはこんな人間」という判断があります。だから、互いに「変わらないあの人」として関わっています。  しかしそれは思い込み、関係を続けるための暗黙のルールみたいなもので、本当は「今は別の心の状態の、別の人間」なの

 

自分自身さえ、心はコロコロと変わりつづけています。相手だって同じです。人は、互いにコロコロと変わりつづける心で、いつも新しく向き合っているのです。  こうした理解に立つと、相手はつねに「新しい人」になります。「過去にあんなことをした、こんなことを言われた相手」というのは、こちらの「執着」。本当は、「まったく新しい人として向き合う」ことだって、選べるのです。 「次に会うときは、新しい人として向き合おう」というのを、二人の間のルールにしておくのもいいかもしれません

 

本書で紹介してきたブッダの思考法は、そのまま「勝ち方」としても使えます。  たとえば、「妨げ」に襲われたら、「なるべく反応しないで〝妨げが襲ってきている〟と理解する」というのは、正しい勝ち方です。  また「方向性」つまり、自分の目標をよく見て、「こんなことで負けてはいけない」と、自分を奮い立たせることも、勝ち方のひとつです。  ほかにも、①反応に逃げない、②快を見つける、という心がけもあります。 「反応に逃げない」というのは、たとえばちょっとした隙に、テレビをつけるとか、ネットを開くといった反応を止めること

 

仏教では、こうした小さな反応のことを〝漏れ〟と表現します。大切な物事に心を向けることができずに、小さな〝心の穴〟から反応が外に漏れてしまう状態です。  こうした小さな漏れが積み重なると、やはり成功の可能性は、遠くなってしまい

 

「勝ちたい」と思う気持ちが強いほど、負けたときの敗北感、心の痛みは激しくなります。いつまで経っても、落胆、失望、負い目、挫折感から自由になれない人は、大勢います。  仏教では、「もともと勝ちも負けもない。そのような思いは、欲と妄想とが作り出した幻なのだ」と理解します。これは、ただの慰めではなく、自らの心を正しく理解したときに、はっきりと腑に落ちる真実

 

人は三つの執着によって

 ①求めるものを得たいという執着(だがかなわない)。  ②手にしたものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。  ③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。 ──サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ  ということは、嫉妬には、これら三つのうち二つの執着があるとわかります。一つは、自分を認めてもらいたいという執着(①)です(でもかなわないから、苦しんでいます)。これは、承認欲から来ています。もう一つは、周りから認められている相手への「いっそ、いなくなってほしい」という執着(③)です。これは、怒りを相手に向けている状態です。  つまり、嫉妬の正体は、承認欲が満たされない怒りを、相手に向けている状態。嫉妬とは、三毒にいう「怒り」の一種なの

 

嫉妬から自由になるというのは、まずは、相手に目を向けている状態から「降りる」こと

 

相手は見ない。「相手は関係ない」と考えて、怒りからも降りる。さらに、「他人と同じ成果を手に入れたい(他人と同じになりたい)」という妄想からも降りることです。  そうやって、嫉妬という感情から、まず完全に降りてしまいます。  その上で、もしまだ認められたいという気持ちがあるのなら、「では、自分に何ができるだろう?」「わたしは、今自分にできることを十分やっているだろうか?」「まだできることがあるのではないか?」と考えるようにします。  すると、自分自身の能力を高めていくこと、仕事・生活を改善していくことに心が向かうようになります。禅の世界でいう「 脚下照顧」──足元を見る──という生き方です。  足元を見て、できることを積み重ねる。改善を重ねていく──こういう努力は、自分の内側だけを見て、今立っている場所からスタートすればよいので、とてもラクだし、自然です。もはや嫉妬とは無縁になります。努力する自分自身の道のりを、謙虚に楽しみながら生きていけ

 

もし、かつて自分が目指した成功や勝利を手にしている人を見かけたら、「よく頑張ったんだな」と認めてあげましょう。〝悲の心〟に立って、その人がどれだけ努力してきたかを感じ取るのです。そのとき「敬意」が生まれます。  もし、相手に嫉妬めいた感情や、負い目を感じたら、考え方をこう切り換えてください。 「わたしには、違う役割があるのだな」  究極のところ、人間の動機は「貢献」です。どんな人も、「お役に立てればよし」なのです。貢献という動機に立って、できることをして、暮らしが立って、ほんの小さな喜びや楽しい出来事が日々に見つかったら、もうそれで十分ではありません