「結果を出す」ことと「結果を出し続ける」ことは根本的に性質が異なる。 結論から言えば、勝つことに執着している人間は、勝ち続けることができないということなのだが、この一言で「なるほど、そうか」と膝を打てて
人が大勢いるようなら、そもそも僕がこのような本を書く必要はなかっただろう。現実においては、勝ち続ける人間、結果を出し続ける人間は極めて 稀 なのである。勝てるかと問われて 頷くことはできても、勝ち続けられるかと問われると返答に 窮するのが普通だろ
スピードや反射神経に頼るのではなく、戦術や戦略を重視し、応用力を身につければ年齢は少しも怖くない。自分の得意なものを捨てて、いかに勝つか。そこを追求する。「この技ができるから細かいことはいらない」と考えるのではなく、自分の得意な技があったとしてもそれに頼らず、どんな状況でも勝てる方法を探るべきで
勝ち続けるためには、勝って天狗にならず、負けてなお卑屈にならないという絶妙な精神状態を保つことで、バランスを崩さず真摯にゲームと向き合い続ける必要が
どんなことがあっても平常心を保てれば、そんな相手に負けるわけはない。それに気づいてからは、そういうアンフェアなことは一切しなくなっ
相手を弱くすることよりも、自分が強くなることの方が大事だと分かったのだ。人の邪魔をすることで優位に立とうとする人はいるだろうが、そういう人はいずれ消えていく運命にあると悟っ
僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ。 昨日と同じ自分でいない──。 そんな意識が自分を成長させてくれる。
一歩後退しても、その後退には意味があり、それがきっかけで二歩進む方法が見えてくることもある。 変化を続けていれば、きっと正しいことが見つかる。また、正しくないことが見つかれば、その反対が正しいことだと分かる。だから、前へ進める。 成長というのは、とにもかくにも同じ場所にいないことで促進される。 そして、常に成長していれば年を取っても、ゲームが新しくなっても、若くて有能なプレイヤーが出てきても、変わらず勝ち続けることができると考えて
不思議なもので、ゲームのプレイ内容と人間性はリンクしているケースが多い。 おそらく子どもの頃から培ってきた人間性、性格、攻撃性、堅さ、上手さ、 狡 さなどが、ゲームを通して表層化されるのだろう。 普段から攻撃的な人は強気の戦いを見せるし、理屈っぽい人は理詰めの戦いをする、弱気で臆病な人はどうしても守り中心に
それから、たくさん本を読んでいた。スポーツ選手の自伝とか、将棋の名人の対戦時のエピソードとか、ジャンルは違うけど勝負の世界に生きている人たちの言葉は、ときに参考になっ
とにかく、大事なのは変わり続けることだ。 良くなるか悪くなるか、そこまでは誰にも分からない。しかし経験から言うと、ただ変え続けるだけで、最終的にいまより必ず高みに登ることができる。
人の目を気にしないことで、もうひとついいことがある。それは、絶対的な集中力が身につくということだ。自分を持っている人は、「俺はこれでいい」と確信できている人なので、圧倒的な集中力が
そんなはずはないのだけれど、ある日、誰かが僕のことを認めてくれるかもしれない。ゲームが上手いということだけでは認めてもらえないかもしれないが、僕がやっていることは〝人を理解する〟ことが欠かせないし、表面的な戦略だけでは勝ち続けられない高尚な世界だ。そこを追求して勝ち続けているのだから、いつか誰かが評価して
何かを身につけたいと思うのであれば、 丁寧 に、慎重に、基本を学ぶべきだ。下手なうちから独自の取り組み方をしたり、自由に伸び伸び練習したりすると、最終的に底の浅い仕上がりになってしまう。 少なくとも2年、あるいは3年、基礎を学ぶ必要がある。自分の我を通すことなく、セオリックなことを学ぶべきだと考えて
その頃は、勝つために役に立つと思ったことは片っ端から試していた。そのために本もたくさん読んだ。ジャンルを問わず、考え方の本や戦術の本は相当な量を読破したと思う。しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほどに、戦術や理屈の部分というのは人と同じようなものになって次第に参考にならなくなり、もっと大事なことがありそう
という結論に至った。 結局、型にはまってしまうのは、失敗を避け、有名になりたいとか、目立ちたいとか、誰かに認めてもらいたいと願う欲望ではないだろうか。そして、結局はその欲望が自分自身を委縮させてしまうの
そのとき初めて、人生で一度だけ、「俺、どうして学校の勉強ちゃんとしてこなかったんだろう」と本気で後悔した。あまりにも情けなかったので、「勉強しなくてもいい。自分の好きなこと、本気でやりたいことを見つけろ」と言っていた父を非難する気持ちにさえなっ
介護の仕事を続けたのは約1年半。その間、ゲームのことは考えなかった。 これが普通の人生なのだろうなと思った。得意なことを披露する場もなく、立場的に仕方なく周りの言うことを聞きながら仕事を
いまだに「このなかから将来の仕事を決めなさい」と言われたときの絶望感は忘れられない。世の中というものは、そんなにつまらないものなのかとがっかりした。日本という国は、大人から示された道しか選べないのかと思ってむしゃくしゃし
僕は勉強するならするで、その理由が知りたかった。 しかし、どうして勉強するのか、その理由を教えてくれる先生はいなかった。
誰にも負けないくらいやり込んできたという自負があれば、どんな相手
気持ちで負けることはない。しかし、賞金目当てで頑張ってきた人間の気持ちは驚くほど弱い。そのことに気づいたので、目的を見誤ってはいけないと実感し
そのことに気づいてからようやく、勝つことより成長し続けることを目的と考えるようになった。ゲームを通して自分が成長し、ひいては人生を充実させる。いまは、そのために頑張っているんだ、
絶対に負けられないと思っているプレイヤーは、だいたい土壇場で委縮してしまう。一方で、日々の練習に 60 の喜びを見出していると、負けても毎日が楽しいから大丈夫だと、気を楽にして自然体で勝負に挑むことができる。その結果、リスキーな局面でも大胆な行動に出ることが
大会を重視する行為は、自分の成長のリズムを崩すと知っているからだ。目標に過ぎない大会に固執せず、目的である自身の成長に目を向けている。それが「勝ち続ける」ことにつながってくる。
自分にとっての適量を考えるなら、 「その努力は 10 年続けられるものなのか?」 自問自答してみるのがいい。甘過ぎることもなく、厳し過ぎるわけでもない。 10 年続けられる努力であれば、ちょうどいいと言える。 10 年続けられる努力かどうか考えれば、おのずと自分にとっての努力の適量、正しい努力の度合いが見えてくるのではないだろうか。
人間は易きに流れる傾向がある。 だから、継続できるサイクルを作ることは、あるいは意識の変化と同等か、それ以上に大事なことではないかと思って
毎日の努力を放棄していても、目標があれば気持ちを 誤魔化せてしまう。「大会まで2カ月あるから、今日は頑張らなくていい」と余裕を持って構えてしまう。そして大会が終わった途端に、頑張る理由もなくなるだろう。そんな波のある生活をしていては、日々のサイクルなど保つことはでき
日々の成長、自身の成長を目的と考えている僕にとって、甘えること、サボることはもっとも避けなくてはいけないことで
ゲームと向き合っている人間は、あたかも一匹狼のように思われがちだ。しかし僕は、そんな格好いい男ではない。人付き合いから学べること、ゲーム業界と一切関係ないジャンルに生きる人から学べることは多く、親しい人と飲むお酒はやっぱり
自分自身に学ぼうとする意欲がある限り、どんな人、どんな本、どんな言葉からでも学びを得ることは
格闘ゲームは人間同士のぶつかり合いだ。ふたりをつないでいるものはゲームだが、対戦しているのは、ひとりの人間とひとりの人間である。だからこそ人との触れ合いは掛けがえのない時間として大切にすべきだろ
対戦から得られるもの、自分の成長がすべてなのだ。 勝ちから得られる収穫があればいいし、負けから学ぶことがあれば
もし、僕のことを負かしてくれるプレイヤーがいるなら、ありがたいとさえ感じる。その相手が課題に気づかせてくれるわけで、課題を修正することで成長できるから
日頃から100の喜びは感じないように努めているから、 80 の喜びは最大級の喜びと言って差し支えない破格のご 褒美
大きな変化、大きな成長を求めると、それを得られなかったとき、モチベーションが低下してしまう。だから1日1日、少しの変化で満足できる
でありたい。継続することが大切だと感じる自分であり
飛躍的な成長や裏技、必殺技を得ようと思わない。一気にレベルアップしなくても、一歩一歩階段を登ればそれでいいの
人は、過去の栄光にすがると弱く
チャンピオンが常に勝てるとは限らない。チャンピオンになることより、勝ち続けること、成長し続けることの方が遥かに難しいし、価値がある。そのことを思い知ると慢心が消え、次の日からまたチャレンジャーの気持ちで戦うことが
自分が満足しかけていると感じたときほど、自分を追い込み、 虐めて
若いうちから失敗癖をつけておけば、トライ& エラーが当たり前の習慣になる。失敗に強く
ところが、視野が広がるにつれて考えが変わってきた。 運に頼る人間は勝ち続けられない。その真実に気づいた。勝ち続ける人間は、運が悪くても勝てる道を追求し続けている人間だ。 いわば、運に頼らない覚悟を持っていると言ってもいいだろ
「運・不運なんて関係ない」 そう断言できるようになった者のみが、運・不運すら超える、神技の領域へと踏み込んでいくことができる。 僕は運が悪くても勝てる道を模索するための方法を、この本に記したつもりだ。