194.三国志 横山光輝

1.武人には武道があり、聖人には文道がある如く、商人には利道がございます。私はあなた達がきっと名をあげ、功をなすとにらみこのお金や馬は投資するのでございます。

 

2.気を静めるんだ。感情に負けるな。

 

しかし天下が乱れるのは天下の乱れにあらず、官の乱れが原因だと言うがそのとおりかもしれぬ。きっと洛陽の将軍や役人にはああいうのがたくさんいるのかもしれん。

 

4.朝廷の諸大臣たる方々が夜は泣き昼は悲しみ集まればぐちばかり。

ここで酒を飲み口をこぼしていたら世の中が変わるとでも言われるのですか。しょせんあんたたちは時勢を嘆いているだけで何もできぬ意気地なしよ。

6.董卓よわしにいいことを教えてくれた。負け惜しみで言っているのではない。戦に負けてみるがいい。敗れてはじめて悟りうるものがあることを今知った。かつて予言者がおれにいった。「きみは乱世の奸雄だと」よろしい天よ百難をわれに与えよ。奸雄ならずとも必ず天下の一雄にはなってみせる。

 

7.絶纓の会

楚国の荘王の話

 

9.我々は昔から国を興しそして滅びまた国を起こすそんな歴史を繰り返してございます。我々はその時代時代に人智を尽くして生きているのでございます。しかしそれも大自然の力の前には為す術を知りませぬ。

黄河の氾濫、イナゴの飢饉、大雪、暴風、それらの前に人間の力で何ができるでございましょう。いかに人間が進歩しようと人間は自分の運命はわかりませぬ。それを知っているのは天だけでございましょう。

 

10.我々3名各々がお互いに至らぬところのある人間だ。その欠点や不足を補ってはじめて1体の兄弟といえるのではないのか。私だって凡人だ。凡人の私がなぜお前にだけ神のごとき万全を求められるものか。

 

ここは逃げる。命あればこそまた次の機会を狙える。

 

張飛よ。竜が沼の淵に潜むのは何のため。時期を待ち天に登らんがためであろう。時には恥を忍ぶこともあろう。

 

15.竜というものはときには大きくときには小さくなるという。余の言う竜とは人間のことだ。英雄のことだ。竜というものは天に昇る機がいまだ熟さんときは頭をうめ爪を隠し深淵にひっそりと身を潜めさざ波さえ立てぬ。だが一度機が熟したと見るや風を起こし雲を呼び一気に天に駆け上がるという。余は人間の英雄にその姿を見る。

 

16.殿は曹操と互角に戦える力をたくわえるまでは滅ぶことよりも生き延びることを考えておられるのだ。生き延びてこそはじめて目的が達せられる。

 

24.昔 楚の項羽は度々の戦に勝ったが、垓下の一戦に破れ高祖に滅ぼされた。それにくらべ高祖の韓信はほとんど勝った試しのない大将でしたが最後の勝利を高祖皇帝に導いてござる。国家の大計というものは目の付け所がござる。局部的な勝敗ですべてを論じるのは軽率でござろう。 孔明

 

将たるもの天文に通じ地理に詳しくなければなりませぬ。こんなことは大地の気温、雲行風速を見ていれば漁師でも予測のつくことでござる。

 

193.学問のすすめ 福沢諭吉

人は真に自由であるために独立心を持たねばいけません。独立心のないものは自分を見失いがちです。

 

独立者になりましょう。

 

人間は誰かを頼りにして生きる寄食者ではいけません。

 

独立者とは他人の考えに影響されず、自分で事態の成否を見分け自分の行動に間違いを起こさない人のことです。

 

192.すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ 堀江 貴文

でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の眼に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。そんな風に感じたので

 

企業からすると高学歴の人間は、理不尽な作業への耐性が強いという判断になる。いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのも、要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているから


今になって思えば、僕が生意気だったのは、落ちこぼれだったからでも、ドロップアウトしたからでもない。ただ、大人たちが押し付けるつまらない常識に従わなかっただけなのだ。  常識を疑い、常識に背を向けたからこそ、今の自分がある。かくして僕は運良く「洗脳」されずにすんだの


僕は以前、「北朝鮮のミサイル攻撃を恐れて敵対するくらいなら、北朝鮮に軍事開発費の提供をしてしまえばいい」と発言して大炎上したことがある。人間同士なのだから、友好的な関係を築くのが一番だと思っての発言だったが、「北朝鮮なんかにお金をやったらどうなると思っているんだ」という反応を多数もらって驚いた。「非国民」という、例の罵声も山ほど飛んできた。 「外国人は出て行け」「〇〇人は犯罪者ばかりだ」といった暴言を吐く人たちの頭の中にあるのは、「人間は、国家という単位によって切り分けるが可能だ」という考え方なのだろう。  ならばむしろ、「国家なんて存在しない」というフィクションを共有できた方がいいはずだ。そうすれば戦争も、国家や人種を理由にした差別も、その意味を大きく失っていくことに


いや、今だって、すでにそうなりつつあるのだ。僕が国際問題について自由に発言し、それによって「非国民」「売国奴」などとなじられても平気なのは、今この社会において、「国家」や「国民」に昔ほどの価値がないからだ。これが戦時中なら、僕はとっくに特別高等警察に突き出されている。  人間の、フィクションをつくる能力は素晴らしい。それは、テクノロジーの進歩を促し、数々の文化を生み出してきた知恵の泉だ。だが、せっかくのその能力が、どうもまだ十分に使われていないように思えてならない。僕の周りにはびこっているフィクションは、とうに古び始めている。そろそろ、新しい時代のための、新しいフィクションが必要だろ


安保法案について、彼らは「これは戦争を起こすための法案だ。このままでは日本で再び徴兵制が行われる」といった主張を再三繰り返していた。しかし、これは明らかな勘違いである。これまで100%アメリカに依存してきた、人的犠牲を伴う安全保障にかかわる任務を日本も分担する。それが安保法案の定めた内容であり、そんなことは法案をきちんと読めばわかるはずだ。  安保法案を戦争法案と呼び変え、「戦争が起きるから」というだけので否定するのは、「安全保障に関わる任務の中で、アメリカ人の命が危うくなるのはかまわないが、日本人にそのリスクが及ぶのは許せない」と主張することに等しい。日本人の命さえ無事ならばいい、というNにこだわった論理は、僕から見ると不気味で


戦時中は、多くの新聞社が権力に迎合して戦争賛美の方向に流れ、それに煽られた民衆の多くも、やはりその雰囲気に飲まれていった。社会を悪しき方向に押し遣るのは、いつでもこうした「雰囲気に飲まれる」人たちなのだ。だから僕は、彼らのような人たちのことを危険だと思うし、その間違いは指摘し続けていきたいと


ゆるいつながりが社会を回して


おそらく今後、かつて絶対に不可欠なものとされてきた共同体の多くが解体されていくだろう。国民国家(N)しかり、会社しかり、学校しかり、さらには家庭しかりだ。  それぞれぼんやりした形は残しながら、もっとゆるやかでフレキシブルな、集合と離散を繰り返す共同体になっていくと僕は考えている。


理由は簡単だ。閉じた共同体なんて、もう時代に合っていないの


僕は、こうした閉じた共同体こそがいじめの温床であり、あらゆるトラブルの元だと考えている。家だの教室だのオフィスだの、狭い閉鎖空間にいつも同じ顔ぶれが揃って日常を共有していれば、関係が歪んでくるのは当然のこと


「老後の楽しみのために苦しい会社勤めに耐える」という考え方を捨て、「楽しく続けられる好きな仕事を、やる気が尽きない限り続ける」という生き方にシフトすればいい。一つの仕事に飽きたら別のことをし、働くのが本当に嫌になったらそれも中断する。お金がなくなったら、また好きなことをして稼ぐ。そう決めてしまえば、「定年に備える」必要もなくなる。  そもそも、現代人はもう、年齢のことを気にしなくていい時代に突入しているのだ。  テクノロジーの恩恵は、 10 歳だろうが 90 歳だろうが等しく受けられる。

 10 代でも 20 代でも、 30 代でも 80 代でも同じことをしていいはずだ。  人間は、 10 歳ぐらいになればすでに肉体的にも完成しているし、ある程度の知性も育っている。そのくらいの年齢に達したら、あとは死ぬまで好きなことをしていればいい。僕は本気でそう思っている。いちいち年齢で人生を区切り、大学、就職、老後というライフステージのことを考える習慣は、工場労働時代の名残でしかないの

 

 ゆるいつながりが大事というのは、「新ネットワーク思考」に通ずるものがあるなぁ。

191.資本論 マルクス

 

労働者というのは、労働力が唯一の収入源なんだ。

でも困ったことにその労働力は買い手の資本家の中でしか商品として機能しない。

資本家が彼らの価値を引き出し、生かしているんだよ。

 

僕は商品じゃない、人間だ。生かされるんじゃなく、生きたい。僕たちは奴隷じゃない。

 

190.ソクラテスの弁明 プラトン

人の徳とは魂をより良くし正しく生きることだ。

 

ところでプラトン、最も恐るべき人間とは何かな?「大衆」じゃよ。

 

僕は友を失いたくないし大衆に友よりも金銭を大事にすると思われたくないんだ。

 

大衆がそんなに気になるかい?

 

病を治そうとするものがいる。彼は1人の医者に従うべきか?それとも多数の大衆の言葉に従うべきか?

 

そりゃあ1人の医者だよ。

 

そうだよ。大切なのは「多」に従うことじゃない。「正しいこと」に従うことだよ。

 

189.現代語訳 論語と算盤  渋沢栄一、守屋淳

そのときわたしは、大いに玉乃に反論し、説得したのだが、引き合いに出したのが『論語』だった。宋王朝( 11) の名臣・趙 普( 12) が、 「『論語』の半分を使って自分が仕えている皇帝を助け、のこり半分を使って自分の身を修める」  といったことなどを引用し


「わたしは『論語』で一生を貫いてみせる。金銭を取り扱うことが、なぜ賤しいのだ。君のように金銭を賤しんでいては、国家は立ちゆかない。民間より官の方が貴いとか、爵位が高いといったことは、実はそんなに尊いことではない。人間が勤めるべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いわけではない」  と『論語』などを引用し

 

中国古代の思想家である 孟子 は、 「敵国や外患がないと、国は必ず滅んでしまう」

と述べている。いかにもその通りで、国家が健全な発達を遂げていくためには、商工業においても、学術や芸術、工芸においても、また外交においても、常に外国と争って必ずこれに勝って見せるという意気込みがなければならない。国家ばかりではない、一個人においても、常に周囲に敵があってこれに苦しめられ、その敵と争って必ず勝って見せる気概がなくては、決して成長も進歩も

 

しかし、わたし自身が逆境に立たされたとき、自分でいろいろと試し、また何が正しい道筋なのかという観点から考えてみたことがある。その内容

 

ここで明かしてしまうと、それは逆境に立たされた場合、どんな人でもまず、 「自己の本分(自分に与えられた社会のなかでの役割分担)」  だと覚悟を決めるのが唯一の策ではないか、ということなのだ。現状に満足することを知って、自分の守備範囲を守り、 「どんなに頭を悩ませても結局、天命(神から与えられた運命) であるから仕方がない」  とあきらめがつくならば、どんなに対処しがたい逆境にいても、心は平静さを保つことができるに違い

 

ところがもし、「このような状況はすべて人のつくり上げたものだ」と解釈し、人間の力でどうにかなるものであると考えるならば、無駄に苦労の

を増やすばかりでなく、いくら苦労しても何も達成できない結果となる。最後には逆境のなかで疲れ切って、明日をどうするかさえ考えられなくなってしまうだろう。だからこそ、「人にはどうしようもない逆境」に対処する場合には、天命に身をゆだね、腰をすえて来るべき運命を待ちながら、コツコツと挫けず勉強するのがよいの

 

「なすべきことを完成させない限り、死んでも故郷に帰ら

「大きな仕事を成し遂げるためには、細事にこだわるべきではない」 「男子たるもの、一度決意したなら、ぜひとも伸るか反るかの快挙を試みるべきだ」  といった格言を旨とするのが大切なのだ。そして同時に、自分の身の丈を忘れないようにして、バランスをとらなければならない。孔子は、 「欲望のままに振舞っても、ハメを外さない」  といわれたが、この言葉の通りに、身の丈に満足しながら進むのがよいのである。  次に、若い人がもっとも注意すべきことに、喜怒哀楽がある。いや、若い人だけではない。およそ人間が世間とのつきあい方を誤るのは、だいたいにおいて、さまざまな感情が暴発してしまうからなのだ。孔子も、

「関雎 という昔の音楽は、楽しさの表現に走りすぎず、哀しさの表現に溺れすぎなかった」  と述べている。つまり、喜怒哀楽はバランスをとる必要があるというのだ。わたしも酒は飲むし、遊びもするが、常に「走りすぎず、溺れすぎず」を限度と心得ている。これを一言でいえば、わたしの主義は、 「何事も誠実さを基準とする」  ということに外なら

 

わたしは常に、精神の向上を、富の増大とともに進めることが必要であると信じている。人はこの点から考えて、強い信仰を持たなければならない。わたしは農家に生まれたから教育も低かった。しかし幸いにも中国古典の学問を修めることができたので、ここから一種の信仰を持つことができたのである。わたしは極楽も地獄も気にかけない。ただ現在において正しいことを行ったならば、人として立派なのだ、と信じて

 

およそ人として社会で生きていくとき、常識はどんな地位にいても必要であり、なくてはならないものである。では、常識とはどのようなものなのだろう。わたしは、次のように解釈する。  まず、何かをするときに極端に走らず、頑固でもなく、善悪を見分け、プラス面とマイナス面に敏感で、言葉や行動がすべて中庸にかなうもの

 

常識なのだ。これは学術的に解釈すれば、 「智、情、意(知恵、情愛、意志)」  の三つがそれぞれバランスを保って、均等に成長したものが完全な常識であろうと考える。さらに言葉を換えるなら、ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に外なら

 

「情」は一種の緩和剤で、何事もこの「情」が加わることによってバランスを保ち、人生の出来事に円満な解決を与えてくれるのである。もしも人間の世界から「情」という要素を除いてしまったら、どうなるだろう。何事も極端から極端に走って、ついにはどうしようもない結果を招いてしまうに

ない。だからこそ、人間にとって「情」はなくてはならない機能なのだ。  しかし、「情」にも欠点があって、それは瞬間的にわきあがりやすいため、悪くすると流されてしまうことだ。特に、人の喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しさ、憎しみ、欲望といった七つの感情は、その引きおこす変化が激しいため、心の他の個所を使ってこれらをコントロールしていかなければ、感情に走り過ぎるという弊害を招いてしまう。この時点で、「意志」というものの必要性が生じてくるので

 

動きやすい感情をコントロールするものは、強い意志より他にはない。だからこそ、「意」は精神活動の大本ともいえるものだ。強い意志さえあれば、人生において大きな強みを持つことになる。しかし意志ばかり強くて、他の「情」や「智」がともなわないと、単なる頑固者や強情者になって

 

根拠なく自信ばかり持って、自分の主張が間違っていても直そうとせず、ひたすら 我 を押し通そうと

 

同じように、実社会においても、人の心の善悪よりは、その「振舞い」の善悪に重点がおかれる。しかも、心の善悪よりも「振舞い」の善悪の方が、傍から判別しやすいため、どうしても「振舞い」にすぐれ、よく見える方が信用されやすくなるの

 

宋の時代は、先ほど述べたように、社会正義のための道徳にばかり走って国を滅ぼしてしまった。一方、今日では自分さえよければいいという主義のために身を危うくするような状況がある。これはお隣の中国だけの話ではない。他の国々もみな同じなのだ。つまり、利益を得ようとすることと、社会正義のための道徳にのっとるということは、両者バランスよく並び立って

 

初めて国家も健全に成長するようになる。個人もちょうどよい塩梅で、富を築いていくので

いかに自分が苦労して築いた富だ、といったところで、その富が自分一人のものだと思うのは、大きな間違いなのだ。要するに、人はただ一人では何もできない存在だ。国家社会の助けがあって、初めて自分でも利益が上げられ、安全に生きていくことができる。もし国家社会がなかったなら、誰も満足にこの世の中で生きていくことなど不可能だろう。これを思えば、富を手にすればするほど、社会から助けてもらっていることに

 

だからこそ、この恩恵にお返しをするという意味で、貧しい人を救う

の事業に乗り出すのは、むしろ当然の義務であろう。できる限り社会のために手助けしていかなければならないの

 

「高い道徳を持った人間は、自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得させてやる」  という『論語』の言葉のように、自分を愛する気持ちが強いなら、その分、社会もまた同じくらい愛していかなければならない。世の富豪は、まずこのような観点に注目すべきなの

 

また、お金は社会の力をあらわすための大切な道具でもある。お金を

 

にするのはもちろん正しいことだが、必要な場合にうまく使っていくのも、それに劣らずよいことなのだ。よく集めて、よく使い、社会を活発にして、経済活動の成長をうながすことを、心ある人はぜひとも心がけて欲しい。お金の本質を本当に知っている人なら、よく集める一方で、よく使っていくべきなのだ。よく使うとは、正しく支出することであって、よい事柄に使っていくことを意味する。よい医者が大手術で使い、患者の一命を救った「メス」も、狂人に持たせてしまえば、人を傷つける道具になる。これと同じで、われわれはお金を大切にして、よい事柄に使っていくことを忘れてはなら

 

何でもない教えなのだが、確かに、毎日新たな気持ちでいるのは面白い。その一方で、すべてが形式的になってしまうと、精神が先細りしていく。何についても「一日を新たな気持ちで」という心掛けが肝心なのだ。  政治の世界で、今日、物事が滞ってしまっているのは、決めごと

 

現に家康の遺訓の一つとして、よく知られたこんな一節がある。 「人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。  不自由なのが当たり前だと思っていれば、足りないことなどない。心に欲望が芽ばえたなら、自分が苦しんでいた時を思い出すことだ。耐え忍ぶことこそ、無事に長らえるための基本、怒りは自分にとって敵だと思わなければならない。  勝つことばかり知っていて、うまく負けることを知らなければ、そのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ。自分を責めて、他人を責めるな。足りない方が、やりすぎよりまだましなのだ」

 

もちろん、だからといって自分を磨くさいに、知恵や知識は重視しなくてよいというわけではない。ただし今の教育は、知恵や知識を身につけることばかりに走ってしまい、精神力を鍛える機会が乏しくなっている。だから、それを補うために自分磨きが必要なのだ。自分を磨くことと、学問を修めることが相容れないと思うのは、これも大いなる誤解でしか

 

おそらく自分を磨くというのには、広い意味がある。精神も、知恵や知識も、身体も、行いもみな向上するよう鍛錬することなのだ。これは青年も老人も、ともにやらなければならない。これが挫折せずにうまく続けられれば、ついには理想の人物のレベルに達することができるので

 

ただし、簡単に善悪二つに分けられるにせよ、そもそも事業にはさまざまあって、競争の種類もいくつもある。そのなかで性質が善でない競争に携わった場合、状況によっては利益が転がり込んでくることもあるだろう。しかし多くの場合は他人を妨害することで、やがて自分の損失にもつながってしまう。さらに自分や他人という関係ばかりでなく、その弊害が国家に及んでしまうこともある。「日本の商人は困ったものだ」と外国人にまで軽蔑されるようになれば、その弊害はとても大きいといわざるを得

 

福沢諭吉さんの言葉に、 「書物を著したとしても、それを多数の人が読むようなものでなければ効率が薄い。著者は常に自分のことよりも、国家社会を利するという考えで筆をとらなければならない」  といった意味のことがあったと記憶している。実業界のこともまた、この 理 に外ならない。社会に多くの利益を与えるものでなければ、正しくまともな事業とはいえないのだ。  かりに一個人だけが大富豪になっても、社会の多数がそのために貧困に

ような事業であったなら、どうだろうか。いかにその人が豊かになったとしても、その幸福は繫がっていかないではないか。だからこそ、国家多数の豊かさを実現できる方法でなければならないので

 

しかし武士には武士道が必要であったように、商工業者にも商業道徳がないと真の豊かさは実現不可能なのだ。商工業者に道徳はいらないなどというのは、とんでもない間違いだったので

 

そもそも地位や豊かさは、聖人や賢人も望むものだし、貧しさや賤しさは逆に望まないものであった。これは、われわれ凡人と変わることがなかった。ただし彼らは、人としての道や社会道徳の方を根本的だとし、経済力や地位は枝葉末節だと考えていた。ところが昔の商工業者たちはこの考えに反対し、経済力や地位の方を根本において、人としての道や社会道徳を枝葉末節に置いてしまった。これは誤解もはなはだしいのではないだろうか。

 

ヤマト魂や武士道を誇りとするわが日本で、その商工業者が道徳の考え方に乏しいというのはとても悲しむべきことだ。しかし、その原因は何だろうと探っていくと、昔から続いてきた教育の弊害ではないかと思うのだ。  わたしは歴史家でもないし、学者でもないので、遠くその根源を究めるということはできない。しかし、『論語』にある 「人民とは、政策に従わせればよいのであって、その理由まで知らせてはならない( 4)」  という考え方が、江戸時代に定着していたことは確かだろ

 

豊かさと地位とは「人類の性欲」とでもいうべきものだが、初めから道徳や社会正義の考え方がない者に向かって、利益追求の学問を教えてしまえば、薪に油を注いでその性欲を煽るような

結果は初めからわかっていたの

 

今でも、高等教育を受けた青年のなかには、昔の青年と比較してまったく 遜色 のない者がたくさんいる。昔は少数でもよいから、偉い者を出すという天才教育であった。今は多数の者を平均して教え導いていくという常識的


これに対して、今の教育は知識を身につけることを重視した結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学や大学に進んでますますたくさんの知識を積むようになった。ところが精神を磨くことをなおざりにして、心の学問に力を尽くさないから、品性の面で青年たちに問題が出るようになってしまった。  そもそも現代の青年は、学問を修める目的を間違っている。『論語』にも、 「昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を

ために学問を


同時に、教育の方針もやや意義を取り違えてしまったところがある。むやみに詰め込む知識教育でよしとしているから、似たりよったりの人材ばかり生まれるようになったのだ。しかも精神を磨くことをなおざりにした結果、人に頭を下げることを学ぶ機会がない、という大きな問題が生じてしまった。つまり、いたずらに気位ばかり高くなってしまったのだ。このようであれば、人材が余ってしまう現象もむしろ当然のことではないだろう


「仕事とは、地道に努力していけば精通していくものだが、気を緩めると荒れてしまう」  といわれるが、何事においてもこれは当てはまる。もし大いなる楽しみと喜びの気持ちをもって事業に携わっていくなら、いかに忙しく、いかにわずらわしくとも、飽きてしまったり嫌になってしまうような苦痛を感じる

もないだろ


さて、そんな華々しい活動を続けた栄一の私生活に最後に触れておこう。彼は最初の妻千代を四十三歳のときになくすと、後妻として兼子と結婚し四男三女をもうけている。またこの時代の通例で、お妾さんも数多く持ち、その子供は三十人以上はいた


こうして栄一は、十一月十一日に大往生を遂げた。享年九十二歳。墓地は東京上野にある谷中霊園、主君であった慶喜にほど近いところに、そのお墓は置かれて

 

 妾がたくさんいて子供が30人以上いたことが1番の衝撃。

188.死に至る病 キェルケゴール

人間の生き方を突き詰めて2つに分けた。

1つは感性的な生き方。これは官能的な生き方を求め、日常の表層的な部分だけで自分の人生すべてを閉めようとする刹那的な生き方。

この自分の外側にあるものに没頭する生き方は、常に外側からの刺激が必要になってくる。感性的な生き方は個人の主体性が薄れ自分自身をコントロールできなくなる。

安定もなく心も休まらない。人は常に自分の外側にあるものに流されるがままになる。

この絶望の感覚は自分をさらに刺激の中に埋没させることで無意識の中に押し込めることができる。

で誰でも普通に日常の生活が送れる。精神的に低いところへ流れながら。しかしこの感性的な生き方は自分自身に無責任になることが1番の問題。

人は自分の行動をすべて外からの影響に動かされているだけと考え、自分自身の責任を放り出してしまう。

 

2つ目は倫理的な生き方。自分自身に関わる全責任を引き受け、意識的な決断で世界と関わっている自分のあらゆる可能性の中から自分が正しいと思う自分を選ぶ。もちろん自分ひとりの力で。

 

人は孤独になる時自分との対話が始まり、自分の存在に迫ることになる。

 

本当の絶望というのは、まさに人間の本質、自分自身の自己を見失っちゃうこと。

死に至る病とは自己が自己である責任を放棄してしまう病であり絶望のこと。

自分が自分自身を選ぼうとしないこと。自分が望む自己であろうとしないこと。

 

人が自分の絶望から逃れられる唯一の方法は、精神のレベルの高い生活を送るしかない。

 逆に明るい話に感じた。人間の悩みは昔から同じだね。