117.脱洗脳教育論 苫米地英人

「日本人は奴隷として勤勉で、よく働く」「奴隷を育成するための日本の教育レベルは高く、日本人は奴隷として優秀だ」。これが真実である。
しかし、物心ついたときから文部科学省の指針に基づく教育のもとに育ってきている日本人は、そのことに気がつかない。「税金を納めるのは、安定した国民生活のため」という教科書の文言を信じて疑わないように洗脳された結果、雇い主のために忠実に働く奴隷として生きることに何の疑問も持たないのである。
イギリスの教育制度は心を自由にするためのものである。そのことは本質的には正しい。 オックスフォードやケンブリッジの教育制度は自由人をつくる制度である。ただし、この自由人をつくる制度は上流階級のためのもの、労働をしないということが大前提である。 自由は、上流階級の特権だというわけだ。
イマージョン教育(早期外国語学習教育)にしても、わずかな導入例しか日本に見られないのは、外国の名門大学に入学できる語学力はついても、東京大学京都大学といった大学に入学できる英語力がつかないからだ。要は、日本人には、世界に向けて発信できるような英語は身につかなくてもいいと、言っているようなものだ。これも、誰かの意図が働いているとしか思えない。
 
教育とは何だろうか。 読んで字のごとく、教え育てることである。 では、何を教え、どんな人間に育てるのだろうか。 「自由な心を持つ人間」に育てることであり、そして「自由であるためには責任が伴うこと」を教えることである。
奴隷には自由はない。人が奴隷の状態にあっては、真の教育は成り立たないのである。
 奴隷は決して自己判断をしない。してはいけない立場にいる。誰かの忠実な僕であることが、優秀なの。
お湯の温度と温度計の温度は異なっているため、お湯の中に温度計を入れた途端にビーカーの中のお湯の温度はなんらかの変化を起こす。つまり、温度計が示す温度は、そもそものお湯の温度ではない。すべての計測は、計測結果に必ず影響を与えるというのが、不確定性原理である。 教師は右のことを説明し、「不確定性原理によってお湯の温度は計測不能ですが、それに近い値を測りましょう」と言って実験を行ったあと、「この実験からわかるように、この世にお湯の温度を正確に測れる温度計は存在しません。この原理はすでに証明されています。このことから、この世に正しい唯一のモノサシは存在しないと言えます」と子どもたちに教えるのである。
 
この世に正しい唯一のモノサシは存在しないということは、何らかの基準によってなされた評価は無意味だということである。この世にたった一つの評価基準は存在しない。これは教育における評価にも同じことが言えるのである。 たとえば、学校で行われるテストは、評価のためでなく、習熟度や理解度を確認するためのものでなければならない。よって、点数を付ける必要はまったくない。どこを理解していないかを知るためには、点数は何の意味も持たない。
能力が高いとは、文句を言わずせっせと税金を納め、言うことをきく人が一番能力が優れた人になる。これが国の評価基準だ。国にとって能力を一二〇%生かすということは、並みの奴隷以上の奴隷をつくりあげることに他ならない。
近年「派遣切り」が話題になっているが、その渦中にいる派遣労働者のほとんどが、こういった企業の被洗脳者なのだと、私は確信している。 たとえばトヨタ自動車は、自動車大学校、整備専門学校などの関連学校を、全国に数多く有している。それらの学校の生徒募集時の売り文句は「全国トヨタ系企業に、ほぼ確実に就職可能」であるとか、2級、1級自動車整備士の資格が最短で取得できる」などであり、これは労働者募集、もっと言えば奴隷募集広告に他ならない。
私は、工場労働者がよくないと言っているのではない。その選択を社会がわかっていない中学生や高校生に強いることが、問題だと言っているのだ。
これだけオートメーション化されている工場において、企業がより若い人間を欲しがるのは、その賃金の安さゆえでしかなく、その事実を隠していることは、明らかな洗脳なのだ。
つまり、子どもたちに本当に知識を身につけさせたいと思うなら、常に、全体と部分の関係を意識させるような教え方をすべきなのである。 第3章で述べた「知育」「心の教育」「体育」を分けて考えることと、教科別学習法の弊害は通底している。どちらも教育にはあってはいけないことなのである。
一般教養とは、たとえば、権力や国家、政治と個人の在り方について考えるとき欠かせない知識として、ホッブズ、ロック、ヒューム、バークレーくらいを読み、日本文化に関しては、仏教、道教儒教の三つの宗教に関する基本的なことを学ぶことである
 
これは、世界の人々がどういう生き方をするのか、物の見方をするのかということを考える上で、重要な資産となる教養だからである。 外国の書物が学習の基となる場合、中学校、高等学校くらいまでは、日本語に翻訳されたものを読んでも構わないが、大学では、それらを原書で読んだ方がよい。なぜならば、翻訳書には、翻訳者の意図がどうしても入り込んでしまうこと、そしてまた、原書で読むことこそが、一般教養としての外国語学習だからだ。
日本が独自につくりあげてきた文化をきちんと学び、外国の文化は原書で読む。それが、これからの日本人に求められる、最低限の一般教養である。 大学の四年間で、一般教養を徹底的に学ぶ。歴史、文学、哲学、数学などの基礎を、最低でも四年間は学ぶことが、これからの時代には必須だと考える。それは、教師に知識、倫理観、身体性が求められるのと同じことで、そんな職業に就こうと、そのどれかが欠如してはならないからであ
大学四年間で一般教養を身につけてから、専門分野に進むべきなのだ。これからの時代、医師だから、弁護士だからといって、教養のない人間は信用されなくなるだろう。
倫理観のない人間が、医者や弁護士になるなど、論外だ。倫理観を持つためにも、一般教養の学習は欠かせないのである。医者も弁護士も、教師と同様、全体と部分の双方向的な関係で部分が決まり、全体が決まるということを理解していなければならない。
しかし、子どもたちに正しい教育をさせるには、最低限の知識を習得しておく必要はあるだろう。つまり、親も勉強することだ。前に述べたように、たとえば、政治について考えるなら、最低ホッブズやロック、ヒューム、バークレーを読み、日本文化や宗教についてなら、本当の意味での仏教を学び、儒教道教も知っておくべきだ
子どもの未来に対して、一切コメントするなということである。親があえて言うのであれば、あなたは何にでもなれるよ、君ならなれるよ、と褒めまくることだ
繰り返すが、親は子どもの見本になることだ。この条件がクリアになってさえいれば、あとは、特別なことをする必要はない。むしろ何もしないほうが、まともな子どもが育つ。「こうしなさい」「あれはだめ」は、子どもにとって最も身近な人間からの洗脳に過ぎない。 親の最も重要な役割は、子どもの見本となるような人間になること、そしてドリーム・キラーにならないことである。
親は、宣言すべきである。私には教育の義務があるので、子どもにテレビを見させませんと。家にある酒とテレビを即刻捨てるべきである。飲酒をするなら、外で飲め、どうしてもテレビを見たいなら外で見ろ、ということだ。
では、こういう子どもたちが担う未来の日本はどんな国になるだろうか。ひと言、よい国だ。生産性の高い国ができる。国のGDPが高くなる。なぜなら、生産性は人がやりたいことをやっているときに初めて上がるものだからだ
人と人との利害がぶつかることもない。自己責任で自分のしたいことをしていれば、利己的なものの見方をすることはなくなる。つまり、視点が上にあがっているわけだから、他人の行動や夢も自分の一部として見ることができるということだ
言い換えれば、利己主義ではなく、利他主義と言えるかも知れないが、ただ「他」という意味合いは、利己主義を前提とした、つまり視点を自分に置いた概念であるからふさわしくないような気がする。ここで私が強調したいのは、自分と他人の区別がないということで、自分と他人の区別がなければ、自分の利益と他人の利益は常に合致するしかないということだ。
さらに、世界に平和がもたらされる。自分の夢をかなえ、やりたいことをやっている人間は人殺しはしないし、他人を尊重することができる。