205.なぜ日本人は落合博満が嫌いか? テリー 伊藤

なぜ日本人は、そんなに落合が嫌いなのだろう。  それは、日本人が落合の 凄 さを評価できるほど、大人になっていないからではないだろう

 

そして、そういう国のなかで、落合だけが、どんなに嫌われても、勝利だけを唯一の目的として、わが道を進んでいる。  群れず、はしゃがず、黙って信念を貫いていく。   媚びず、言い訳せず、不気味なほど寡黙に勝負して、勝つ。  そこには、古き良き日本人が持っていたパワーがある。同時に、日本人がいまだかつて持ち得なかった新しい価値観がある。

 

それを私は「落合力」と

 

は生まれついての巨人ファンであり、長嶋茂雄信者なのだが、ある日、気がついてしまったのだ。この落合力こそが、いまの日本人にはもっとも必要な力だということに。  そして私は、来る日も来る日も落合について考えつづけている。  いまこそ、日本人は落合博満に注目するべきだ。落合監督から日本人が生き抜く力を学ぶべきだ。それが私の叫びで

 

「いまこそ、落合博満に注目して見なければ、私たちは大きな悔いを残すことになる」 「いま、この日本の 閉塞感を打破するための答えを示しているのは落合監督だ」  私は完全に、そう気づいてしまったのだ。

 

それは、日本人が「わかりやすいもの」ばかりを求めるようになったからだ。親切に説明してくれるものは理解し、高く評価もするけれど、説明がないものを自分の想像力や努力で理解しようとしなくなっているの

 

説明過多に慣れすぎて幼稚化している日本人は、だからこそ、寡黙な落合監督に目を向けるべきなの

 

ビートたけしと落合には、もうひとつ共通点がある。それは、いつでも

冷めているということだ。常に自分を客観的な目で見ることができるの

 

どんなときでも、みんなと一緒にその場に入り込んでしまうことがない。いつも「第三者的視点」を持っているのだ。  だからこそ、彼らは、そこに起きている状況や本質を瞬時に読みとることができる。そうして、ビートたけしは、その場を一瞬のうちに自分のものにしてしまうことができるし、落合は涼しい顔をして逆転サヨナラホームランを打てる。だれもが「え!?」と驚くような采配を静かに実行して勝ってしまうの

 

それは、 落合は嫌われることを恐れないからだ。これは、日本人にとって、もっとも難しいことで

 

たとえ、みんなに嫌われても、自分の信念や理想を貫いて生きること。それをずっと実行してきたのが落合博満という人間であり、嫌われることを恐れて自己主張もできないのが日本の国民性なの

 

落合だって、何も好き好んで人に嫌われようとしているわけではない。人の顔色を気にすることなく、自分の信念のもとに目標に向かって突き進ん

いるだけだ。

 

しかし、日本人は「協調性が大事」とか「みんなの意見をよく聞こう」といって周りの様子をうかがってばかりで、自分1人では何もできなくなっていったのだ。  そして、落合がたった1人で名球会を拒否したのは、まさに、嫌われることを恐れずに自分が信じた行動をとることができるからで

 

それでも落合監督は、その言葉どおりの結果を何度も示して見せた。それは落合監督が「常識」とか「固定観念」などという

 

「指導者とは、教えるのが仕事じゃない。見るのが仕事だ」  落合監督はそう言っている。「見て、判断する」「見て、決断する」のが、監督の仕事なの

 

いまここで起こっている状況や、その状況に気をとられている人たちに自分を同化させるというメンタリティーをこの人は持ち合わせていない。まるで他人事のように冷めた目でこの場を見きわめ、きわめて客観的な視点で先の先まで読んでいる。  その常人とは思えないような予見性が落合の言葉のもとになっているのだ。

 

落合監督が、批判も非難も 罵声 も、すべてのリスクを背負うことも 厭わずに「勝つことしか考えない」と言っている。その生きざまこそドラマチックなのだ。 「勝つこと以外に俺が生きる道はない」と思い定めて、365日、そのために生きている男のドラマ。これ以上のドラマがどこにあるものか。  その「本物」のおもしろさに気づこうともせずに、「さあ、私を楽しませてよ。私にサービスしてよ」と寝そべっているような日本人は、この先、何ひとつ自分で生きる喜びを見つけられないということを思い知るべきなのである。

 

落合は、かつての日本人が持っていたはずの力を1人だけ失うことなく持ちつづけている。同時に、いままでの日本人が持っていなかった力もまた落合は持っている。  この力を私たちが身につければ、この国を活力に満ちた国にすることができるはずだ。だからこそ、いま、日本人にいちばん必要なのは「落合力」なので

 

情報はいくらでも 溢れかえっているから、みんな情報収集能力は高くなったかもしれないけれど、独創性や創造力は低下する一方。それが、日本が二流国家に成り下がっている大きな理由のひとつなのだ。

 

どんなに非難されても自分が正しいと思うことを実行し、嫌われても筋をとおし、誤解されても言い訳せず、ひたすら野球の理想を追求する。  そこには、不気味で底知れぬパワーがふつふつと沸いている。愛想笑いの代わりに決断力を、過剰な説明の代わりに実行力を、予定調和の代わりに

 

を、静かに狙いすまして成しとげていく。それが「落合力」である。  けれども、日本人は、その凄さに気づこうとし

 

「目標ができたからです。いまの自分には、はっきりとした目標があるから、いつまでもダラダラ残ってなんかいられません」  まさにそれは、落合監督の「勝つことが唯一の目標」という姿勢と同じである。その目標を思えば、「なんだ、あいつは愛想がないな」などと言われることなど気にならないの

 

視聴率という戦場で私は戦い、野球という戦場で落合は戦う。  落合監督や私だけでなく、戦場で戦っている人たちにとって大切なのは、戦友と慣れ親しむことよりも、お互い、勝って生きて帰ることなのである。  記者たちや選手たちと一緒に飲みにいったり、リップサービスしたりして仲良くしているより、とっとと家に帰って明日の試合のことを考え、勝って成績を上げること。それが「落合力」なのである。  不評こそパワーの源泉

 

マチュア時代から名門チームで華やかな野球をしていたエリート選手には到底、身につけることのできないマイナーのオーラ。それがメジャーなステージでも不気味に輝いていた落合の源流にある。  そして、それこそが「落合力」として、いま、さらに輝きを増しているの

 

しかし、あそこで交代を決断した落合監督が、大きな大きなリスクを背負っていたことを忘れてはいけない。  あのとき、もし山井に続投させて打たれたとしても、だれも落合監督を責めなかったはずだ。「そりゃあ、あそこで替えられる監督はだれもいないよな」と、みんな言っていただろう。

 

その反対に、もし岩瀬が打たれていたら、落合監督は、彼自身の歴史のなかでも、長い日本シリーズの歴史のなかでも、最高潮の批判を浴びていたはずだ。  そういう危険をおかしてまで決断できるのが落合博満という男なのだ。その勇気と決断力は、あの伝説の投手交代劇を語るときに、けっして欠かしてはいけない視点なので

 

プロ野球という戦場で、孤高に戦ってきた落合博満にとって、きっと信子夫人という存在は、唯一無二の安息の場であり、心のよりどころであり、戦友なのだろう。  どんなに世間の風当たりが強くても、信子夫人が理解してくれれば救われる。だれにも彼にも愛されたり認められたりする必要なんかない。  逆にいえば、信子さんというパートナーがいるからこそ、落合はたった1人でも落合革命を起こす勇気と活力を得られたのではない

 

日本のマスコミは、だれかのネガティブな面をとらえて、そこをクローズアップすることにかけては天才的な能力を持っている。そのおかげで、日本人全体が批判の天才になってしまった。  しかし、その反面、ポジティブな面を 見出して評価することが、どんどん苦手になってしまった。