276.人間とは何か マーク・トウェイン、中野 好夫

人間誰も創造なんてことは絶対にない。思惟も衝動も、すべて 外から くるわけさ。

 

つまり、人間の頭ってものは、 なに一つとして新しいものなんか考え出せるもんじゃない、そんな風にできてるんだよ。 外から 獲た材料を利用するだけの話なんで、要するに機械にしかすぎないんだよ。ただ自動機械みたいに運転するだけなんで、意志の力で動いたりするんじゃない。 自分で自分を支配する力なんか、 もちろんないし、

 

んで、 機械に創造なんかできるわけがない。

 

青年  なるほど、ずいぶん奇妙な説ですねえ。じゃ、その人間を行動に駆り立てる唯一無二の衝動ってのは、いったい何なんです? 老人  つまり、 自分の心の満足がえたい という衝動 自分自身の心の満足感をえて、

 

老人  それがまちがいなんだ。行動ってものは、 なによりもまず 自分のためじゃなくちゃならん。そうでなけりゃ、決してやらんね。なるほど、そりゃ一にも二にも他人のためにやってる つもり でいることはあるかもしれん。だが、実際はそうじゃない。まず第一には、自身を満足させてるんで 他人のためなんてのは、つねに その次 なんだ。

 

老人  結構、これがその法則だよ、よく憶えとくんだな。つまり、 揺籃から墓場まで、 人間って奴の行動ってのは、 終始一貫、 絶対にこの 唯一最大 の動機 すなわち、 まず自分自身の安心感、 心の慰めを求めるという以外には、 絶対にありえんのだな。

 

老人  戦場へ赴かせるのか、ってことが きたいんだろう? そうなんだよ 世論って奴は、しばしば人間をして どんなことだって やらせる。

 

それがわしたち自身までを不愉快にでもしないかぎり、他人の苦痛なんてもんには、まず 例外なく 完全に無関心だってことだな。

 

いや、ただ言葉の普通の意味においてだな 他人のために自己犠牲をやる人間なんてのは絶対にいない つまり、他人のため だけの 自己犠牲なんてものはありえない、ってことを言った

 

たしかに、人間、他人のために毎日自己犠牲はやってる。だが、それも まず第一には自分のためなんだよ。 なによりもまず その行為は、自分を満足させるものでなくちゃならん。その他の効果ってのは、すべてその次の話なんだ

 

もともと教育なんてもんは、すべて形こそ異なれ、 外からの影響 の結果にすぎんのだな。そして、それには 人間関係 って奴が、なんてったって大部分なんだよ。要するに人間って奴は、すべて外からの影響がつくり出す産物にすぎん。

 

救いがないだと? このカメレオンに救いがないだって? いや、そりゃちがうな。人間、カメレオンだってことこそ最大の幸運じゃないかな。つまり、その生息地 早くいや、その 人間関係 だが、それをさえ変えてやればいいんだ

 

神はただ正、不正双方の 可能性 をもった人間を創り出しただけの話で、そこでやめちゃった。正の方にしろ、不正の方にしろ、その可能性を伸ばすのは 人間関係 なんだな。その結果次第で、正しい人間にもなれば、不正な人間にもなる。

 

まず君の理想をより高く、 さらにより高く するように努めることだな。そしてその行き着くところは、みずからを満足させると同時に、隣人たちや、ひろく社会にも善をなすといった行為、そうした行為の中に君自身まず最大の喜びを見出すという境地を志すことさ。

 

青年  すると、あと道徳家としてなすべきことは、何なんです? 老人  これまで口の一方では教えながら、もう一方では否定してたようなことを、今後は公然と隠すことなく教えることだな。つまり、まず 己れ自身のために 善行をなせ、すれば、 隣人 もまた必ずその結果たる恩恵に浴するわけなんだからと、そんな風にまず考えて、大いに幸福感に浸ることだ

 

老人  つまり、 せっせと君たちの理想を向上させるように努めること

 

そして みずからがまず満足すると同時にだな、 そうすれば、 必ず君たちの隣人、 そしてまた社会をも益するはずだから、 そうした行為に確信をもって最大の喜びが感じられるところまで、 いまも言った理想をますます高く推し進めて行くことだ

 

どうだ、わしの言った通りだろう。心って奴はな、人間からは独立してるんだよ。心を支配するなんて、そんなことのできるはずがない。心って奴は、自分の好き勝手で自由に動くものなんだな。君たちの意向などお構いなしに、なにを考えつくかわからんし、また君たちの考えなどお構いなしに考えつづけることも

 

あなたのおっしゃる思考ってのが何だかは、だいたいわかってますよ。つまり、外界から受けた印象を、自動的、機械的に総合して、そこから一つの推論を出してくるってことなんでしょう。

 

ああ、実によくできた。だが、わしに言わせればだな、「本能」なんていうその無意味な言葉、要するに、それは 石化した思考 ってことにすぎんと思うな。習慣によって固形化し、生命はすでに失われたとでもいうか、かつては生き生きとしてた思考が、いつのまにか無意識になっちまった いうなればあの夢遊現象みたいなもんだな。

 

物質的 価値なんてものはない。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。いくら 現実、 実在 の物質的価値なんてものを探し求めたところで、無駄な話 そんなものはありゃしないんだから。ほんのしばらくにもせよ、それがもってる唯一の価値ってのは、ただ背後にある精神的価値だけなんだ。それを 奪っちまえば、たちまち無価値に転落しちまう いまの帽子がいい例だよね。

 

あてはまるとも。金銭もまたシンボルにすぎん。 物質的 価値なんてものは全然ない。

 

財産の価値は一挙に失われちまった。そこではじめて悟ったんだが、物を持つ喜びってのは、なにも金銭そのものからくるんじゃない。一にそれが家族のものに与えているうれしそうな顔、それをまた目のあたり見ている彼自身の精神的満足にあったってことが、はじめてわかったんだな。なにも金そのものに 物質的 価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を 奪っちまえば、あとにのこるものは 鉄屎 だけなんだ。すべてのものがそうなんだ 大きなもの、小さなもの、堂々たるもの、くだらんもの、例外なんて一つとしてありゃし

 

その点からいや、みんな同じ。 物質的 価値なんかあるもんか。 精神 を満足させるかぎりは貴重だが、それがなくなりゃ、一文の価値もない。

 

主情念 つまり、精神の満足ってのはだな、なにもいわゆる物質的利益、物質的繁栄、つまり、現金だの、その他そういったものばかりを求めるとはかぎらん。いろいろと、もっとほかのことに関心をもったっていうだけの話だよ。