239.根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男 高橋安幸

叩かれ、教訓をもらった。 「まず言われたのは『プロになったとしても、いちばん大事なのは社会人として立派になるのがなによりで、野球は二の次だ』という

 

「はじめに言われた『野球選手である前に、ひとりの人間として、社会人として立派になれ』という言葉です。最初は半信半疑なところもあって、『社会人って、自分はもうプロで金を稼げているから社会人じゃないか』と思ったり。でもそれは違っていて、社会のなかでしっかり生きていける人間

 

なさいと。野球を辞めて社会に出ていったときに恥ずかしくないように、立ち居振る舞いも、生きていく 術 も覚えていかなきゃいけないと。 歳 を重ねるごとに、その意味の深さは自分でも理解してきたつもりですし、まだすべて理解しているとは思わないですけど、指導者という立場になって、より深く、重く感じられるようになってい

 

ただ、田代さんが辞任されたあと、楽天本社の株が2500円から1500円まで下がったんです。そういうことが起きるわけですよ、日本の社会は。だから大げさに言えば、僕は本社まで守りたくて辞めたんです。もちろん、チームの結果が出ないのに、のうのうと続ける気はなかったし、自分が辞めることで、コーチ、選手のダメだったものを水に流せるのなら潔く身を引こう

 

「今の日本球界で本当のGMになり得るのは、西武球団シニアディレクターの渡辺久信さんぐらいでしょう。選手として実績がある上に、他球団、他国での経験もあり、二軍の指導者から一軍監督になって結果も出しています。そしてなにより、根本のオヤジと同じく人望があって、人脈もありますから」

 

渡辺は 13 年オフから編成の仕事に就いた。肩書きは別にして、根本の〝遺伝子〟として期待が

 

「当時、ヤンキースのマイナーに『将来の4番候補』と言われている若手がいたんですけど、コーチは彼のバッティングをただ見ているだけなんです。なにをしているんだろうと思って、通訳を連れて聞きに行ったら、『アイツはオレが面倒を見てる。だけど、今はバッティングがおかしい』と言うんです。『おかしいのなら、すぐに行って直してやりなよ』と僕が言ったら、『ダメだ。今にアイツは、オレのところに助けを求めに来る。そのときに、アイツが理解しやすいように、今は彼にかける言葉を探しているところなんだ』と。『ここがおかしい』と言うのではなく、『ここをこうしたら

だ』という言葉を探してたんです

 

関根は帰国後、現地で経験したことをすべて根本に話した。その貴重な経験談がもとになったのかどうかは定かではないが、この巡回コーチの話は、監督・根本が新任のコーチを教育するときに、決まって伝えていた言葉を想起させる。特に、ファームの若手や新人を指導するコーチに対して命じていた、「なにも言わずに選手を見ておけ」という言葉である。親友である関根からの生きた情報だけに、対話のなかで吸収したものはあったのだろう。  そんなふたりが、4年後、再び同じユニフォームを着ることに

 

だから、弱小といわれるチームでも、浩二と衣笠みたいに楽しみな若手がいると、監督やコーチは夢を持てます。ただ夢を持つんじゃなくて、これでこうチームが組み立つなと、考えられる材料があるってこと

 

かく言う関根も、意図的ではないにせよ、根本と同様の「結果」を出している。 89 年限りでヤクルト監督を退任したあと、野村克也が監督に就任。チームは 92 年にリーグ優勝、 93 年に日本一となった。大黒柱を育てつつ、着々と勝つための土台作りをしていたのが関根だった、と言えるのではないか。 「それで僕も助かったところはあるんだけどね(笑)。ただ、勝負の監督、育成の監督という違いはあると思う。両方できれば本当の名監督だけれども、広岡、森ちゃん(森祇晶)、ノムさんなんかは勝負の監督。僕と根本みたいなのは育成の監督。だから巨人みたいに優勝する戦力を持ったら、オタオタしちゃうだろうね。大変だと思うもの、負けが許されないっていうのは」

 

しかし、それ以上に土井が忘れられないのは、根本の鉄拳だという。あるとき、根本はこう言って土井を叱った。 「ゲーム前は胃袋を空っぽにするぐらいじゃないと、脳に鮮明なものが出てこない!」  バットのグリップエンドでコーンと頭を叩かれ

 

「昔の人は『腹が減っては戦ができぬ』ということわざ通り、ゲーム前に

食べていたんです。僕も『そういうもんか』と思って丼飯を食べていたら、『お前、そんなことしてどうなると思ってんだ!』と根本さんに怒られて。殴り飛ばされるのもしょっちゅうでした

 

それにしても、今から半世紀以上前の日本球界に「脳」という言葉を使い、コンディショニング面も指導する人材がいた事実に驚かされる。土井は「それだけ先見の明があった人」と言うが、根本は1966年限りで近鉄を退団。 奇しくも、土井が初めて4番に固定された年だっ

 

とにかく「勉強しろ!」が口ぐせだった。事あるごとに「社会勉強しろ」「野球の勉強をしろ」と繰り返した。土井にとって、根本が発したこの言葉が特に印象に残っているという。 「社会勉強して大人になっとるか? 大人の考えにならんことには、いくら野球を考えてやろうとしたって無理だ。もっと大人になれ。一般常識人になれ。野球バカじゃダメなん

 

そのなかで一部の野球評論家は、「元はパ・リーグのドン尻チーム近鉄のコーチに何ができるか」と言って嘲笑した。口を開けば〝べらんめえ調〟で、一見、いい加減な人間に見える根本の一面だけを取り上げれば、そう評されても仕方なかった。  しかし、実際には知識欲旺盛で、経営からコンピュータ関係、文学と、あらゆるジャンルの書物を読んでいた根本は、当時、こう語っていた。 「私はいろんな人と付き合う。だから話題も幅が広い。こっちがいろんなものを読んで知識を持っていなければ、話にならない

 

クラウン球団が西武に買収されるとき、ライオンズ生え抜きの選手は全 63 人が在籍していた。それがどんどん減って2年後の 80 年には 12 人になるのだが、 78 年オフには9人が他球団に移籍している。西武の監督兼任GM

 

チーム作りに邁進した根本は、当時の野球雑誌のインタビューでこう言い切っていた。 「僕とすれば、ひとつのものが生まれる、新しく作る、というときには、『徐々に変わるのは不可能なんだ』という考え方なんです。やっぱり、極端に変えることによって変わるんだと思うし、極端に変わる方法として何があるかといえば、まず人ですね。人を入れ替えることによって、自然に雰囲気を変えることができる。極端にそれをやるためには、入れ替えるのは主力でなければいけ

 

野村克也 〈テスト生として球界に入った男です。翌年はずっと二軍暮らし。3年目に一軍にはい上がって、キャッチャーという故障の多いポジションにいながら、あの活躍です。8年間、監督もやりました。そこまで行った男が、また一選手にもどって、〝ボロボロになるまでやりたい〟という。  かつて日本の野球史に、これほど徹底して野球に取り組んだ男がいたでしょうか。自分が出した結果の前で、あれほど素直になれた選手がいた

 

うか。  西武は新しく生まれたばかりのチームです。プロ野球の何たるかを知らない新人を、どんどん獲得しなくちゃいけない。そんなとき、野村君が何も言わなくてもいい。新しい人たちと同居し、行動をともにしてくれるだけでいいんです。  若い子たちの、おのおのの感受性が野村君から何か学び取ってくれればいい。だから、野村君のいるうちに、もっともっと多く若手を獲りたい。それが僕の本音です〉  この

 

「言うなれば、根本陸夫広岡達朗の二人三脚。僕はその歩みによって、西武野球の基盤が作られたんだと思っています。根本さんは大きな器の人生設計、人間教育を考える人で、広岡さんはひたすら選手の技術を高めて勝つ野球を実践する人でした。僕の野球人生において、このふたりの野球人との出会いはとても大きな力になりました」  自分にとってどちらも欠かせない

 

人がする評価というのは、ときとして、窮屈なもんだ。大人というのは、そういう窮屈さを感じながら生きていくものなんだ。枠があって、制約があって、窮屈さを感じていくのが大人の社会。たぶん、お前はそれが嫌で、居心地悪いって言っているかもわからない。オレはお前の気持ちがわからんわけでもないけど、その考えはまだ幼いな。これからは、大人の考えを持って取り組んだらどう

 

「そうだなあ。野球人は温室の中に入っているから、外が暑いのか寒いのか、どんな風が吹いているのか、わかんねえだろ。シーズンオフはお前の同級生、仲間と一緒にメシを食え。お前の仲間は時代とともに生きていて、

 

どんな天気なのか、どんな風が吹いているのか、そうしたことをよくわかってるはずだから、たくさん話をしてこい」  

 

「要は、野球バカじゃダメなんだぞと。スーツを着て人と会う場に行ったら、野球とは違った視点で自分を見つめられるし、社会を見つめられる。そうやって、いろんなことを知りなさい、一般常識を知りなさい、社会の

 

知らないといかんのだ、ということをオヤジは言いたかったんじゃないですかね。でも、当時の自分は、まだ若すぎてわからなかった。時代を経て、オヤジから伝えられた言葉がだんだんと理解できて、何かあるたびに、ビクッ、ビクッと気づかされるようになりました」  その

 

「今、僕がいろいろな場で指導できるのも、常にオヤジに進むべき道を示してもらってきたからです。道を示されるときの言葉には必ず、『野球がちょっとぐらいうまくてなんぼのもんじゃい』という教訓が含まれてました。そして、野球を通じていかに自己の人間形成をするかなんだと常に言われていました。僕もその考えを伝え残していきたいですし、薫陶を受けたみんなにもそうであってほしいなと、強く思います

 

いざ西武に入団すると、他球団から移籍してきた実績十分のベテラン勢が目立っていた。トレードで加入した田淵幸一古沢憲司山崎裕之に加え、 44 歳になる野村克也もい

 

「自分がプロに入ったとき、すでに 25 歳でした。あの頃は今と違って、 35、 36 歳ぐらいで現役を終えたら『よくやった』と言われた時代。だから根本さんには『お前は 10 年間現役をやって、そのあとは指導者になれ』と言われていたんです。本当に現役生活は 10 年間で終わり、根本さんに言われた通り、すぐにコーチをすることになりました。しかも根本さんには、『 50 歳を過ぎたらネクタイを締めて、編成に入れ。チーム作りをしろ』っていう道筋まで立てられていたん

 

その後、落合が現役を引退し、評論家としてダイエーのキャンプを見に行ったとき、根本にこう話しかけられた。

 

「西武に森っていうのがいるだろ? あの野郎、面白いぞ。お前みたいなヤツが使うと結構、面白いと思うぞ」  すなわち、未来の「落合監督」に森を推薦したのが根本だったの

 

中日での森は、参謀として8年間、落合を支えた。チームはAクラスの

ピンク色のハイライト | 位置: 2,278
を守り続け、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成し、指導者として確固たる実績が作られた。そのなかでコーチングスタッフには、小林誠二( 05 年~ 11 年)、辻発彦( 07 年~ 11 年、 14 年~ 16 年)、奈良原浩( 07 年~ 11 年)、笘篠誠治( 08 年~ 11 年)と、西武時代の同僚たちが加わっていった。じつは、森が直に呼び寄せた人材だっ

 

根本の思い出を語り合える野球人のことを、森は「根本一家」と表現する。語り合うこと自体、嬉しいのだという。 「今も野球界のいろんなところで根本一家が残ってる。大事なことは、根本さんをはじめ昔の人というのはすごくいいものを残されていて、それをオレたちがうまく利用するというか、しっかりと伝えて野球界に残していかなきゃいけないってこと。『そんなものダメだ。もう古い』って言う人はそれ

いい。でも、古いものがまた生きてくるときが必ずくると思うん

 

堤のもとに身売り話が来て、 急遽、クラウン球団を買うことになったのは 78 年の夏。買収に当たっては、まず西武が所有していた大洋ホエールズの株を売却する必要があった。球団運営と試合の公正を保つため、複数の球団の経営に携わることは野球協約で禁じられているためだ。

 

売却先はニッポン放送とTBSで、3億円で取得した株は十数億円になり、これがクラウン球団を買収する資金となっ

 

「甲子園のネット裏で巨人のスカウトたちを見たとき、『これは幼稚園か?』と思ってしまいました。スカウト部長に連れられて、みんなひとつに集まって、行儀よく見ていたからです。私は編成本部の人間として、『みっともないから、やめてくれ』と言わせてもらいました。なにしろ、西武のスカウトはバラバラです。外野から見る人もいれば、一塁側から見る人もいる。みんなそれぞれの場所から見ているんです。そもそも、選手の見方はそれぞれ違っていいわけです。みんながみんな、同じ角度から見ていたら得られる情報は少なくなる。だから当時、西武はドラフトがうまかったん

 

「そのときの根本さんの言い分は、『記者すべてが情報を分け合っていたら、野球を見る目が養えない』というものです。とにかくあの人は、みんなで一緒に、というのがダメ。『他と同じことを書くな!』というひと言

 

記者の私にとって、いちばん印象に残る言葉です。スカウトに対してもそうですよね。『絶対につるんで見るな。ひとりで見ろ!』と命じていましたから。あれは、見識があるんですよね」   80 歳

 

「毎日、毎日、球数を投げていくうちに、余計なものがどんどん削れていって、自分の体に合ったフォームになっていった。だから、300球投げても耐えられたんだと思います。あとはバッターに対して投げることで、ちょっとした変化でも打ち損じたりするのがわかる。バッターの反応を見ると、ああ、こんなときに打ち取れるんだ、というふうにすごく勉強になったんです。それから先は、ベテランになっても、調子悪くなったらずっとバッティングピッチャーをしていました

 

「お前はなにを考えてんだ? 試合で緊張するのは当たり前だ。誰だって、緊張するものなんだ。それをなぜお前は隠そうとする? 緊張して、青い顔して投げていたって、アウトを取った人間の勝ちなんだ。緊張してもいいからアウトを取って、チェンジになって帰ってくればいいんだよ」  緊張を隠そうとして強がるのは、下手に労力を使うのに等しい。そんなことに労力を使うのではなく、アウトを取るために全力になる。緊張している自分に正直に向き合い、アウトを取るために全力になっていくと、勝手に緊張が消えていく。後々、下柳はマウンド上でそのことを実感し

 

「ベテランになってからも、ピッチャーはマウンドに上がるまでは緊張するものなんですよ。でも、若い子にすれば、オレなんかは見た目的にもそう見えるんでしょうね。よく『緊張しないんですか?』って言われました。

 

オヤジの教えを思い出して、『するに決まっとるやないか。めちゃめちゃ緊張するわい。緊張せん奴がいたら会ってみたいわ』って話をするようにしてました」

 

常に野球のことしか考えていない様子で、野球に対する情熱がみなぎっていた根本のことを、下柳は「不死身だ」と思っていた。根本が逝去したときは、「あのオヤジも死ぬんや」と思ったという。それから 15 年以上が経った今も、怒鳴られ、叱られ、諭された記憶は鮮明に残る。 「オヤジに言われた、野球に役立ついろいろなこと。これは現役のときにずっと頭の中にあって、今でも頭の中に残っています。だから、オレがもし指導者になったとしたら、オヤジに言われたことをまた言うんだろうし、いつか、オヤジみたいな野球人になりたい。オレはそう思ってい

 

今後は、やる側からやらせる側、サポートする側になる。そのためには今まで以上に見聞を広げ、様々な角度から自分を見つめることが大事になる。ならば、パソコンを使って仕事をはかどらせて、より人に役立つ人間にならなきゃいけない。 「きっと根本さんはそう伝えたかったんだろうな、と受け取りました。ただ、もうひとつ『これからはパソコンでモノが買える時代になるからな』と言われたんです。この言葉は僕には受け取りようがなかった。今では当たり前のことですけど、当時は想像もできませんでした。イマジネーション能力が人とは違うのか、そうした将来的な情報を手に入れられるほどの

を持っておられたのか。そこは定かではありませんが、とにかく『モノが違う』という方でし

 

「組織っていうのは、常々、窮屈なものなんだ。窮屈ななかで、どれだけ仕事できるか、能力を発揮できるかを問われているんだ。そこでしっかり

 

をする者こそ、本当のプロの仕事人であって、窮屈さのあまり仕事ができないとなったら、それはアマチュアなんだよ」  また、

 

初対面で小学生だった馬目の長男は、 30 代になっても可愛がられた。根本家からは年賀状が毎年届き、贈られたスター選手たちのサインと根本自筆の色紙は馬目家の宝物になった。色紙にはこう書かれている。  現在を尽さずして 未来への到達は 有り得ない 根本陸夫    こうした個人、個人との付き合いの積み重ねと広がりが、日本全国に約6000人といわれた〝根本人脈〟を生んだのではないか。付き合いのなかには、きっといくつもの常識を超えた行動、普通とは違う行動があったはずで

 

根本家に招かれ、隆子の手料理を食べていた工藤公康大久保博元、いずれも監督を務めるだけの野球人になった。手料理のなかで工藤が敬遠し、大久保はおいしく食べた牛乳入りのすき焼きを、穣介は「それが当たり前」と思って食べてい

 

「なんにも変わりません、やっぱり。いいことがあったからといって、根本の気持ちがピーンと上がることはなかったです」  妻から見て、一貫して、感情の起伏というものが感じられない夫だった。息子から見てもそれはまったく同感だった。家で夕食後、寝転がってテレビに向かい、チャンバラ時代劇を 観 ているのが最も父らしい姿と思っていた。 「目的、目標としていたものが違っていたんでしょうね。別に父は稼ぎたい人ではなかったので。納税者番付にしても、税金の払い方を知らなかっただけで(

 

あらゆる手を尽くして常勝チームを作り、その結果として稼げても、稼ぐことが目的、目標ではなかった。とすれば、結果ではなくプロセスそのものに根本の目的、目標があったということになるのだろうか。

 

そのようにして西武、ダイエーで根本に指導された選手の多くが、現役引退後、各球団で監督・コーチになった。2015年にはソフトバンク工藤公康オリックス森脇浩司、ロッテ・伊東勤、西武・田辺徳雄楽天大久保博元と、パ・リーグ監督全6人中5人が根本に薫陶を受けている、という現象も起きた。結果が出なければ任を解かれるのが監督業ゆえ、 16 年は6人中3人となったものの、これは「今の野球界が〝根本遺産〟を必要としている証ではないか」と思え