235.孤独のチカラ 齋藤孝

孤独によってしか効率や生産性を高められないのが勉強や読書といった行為である。

そのつかの間の孤独にも耐えられないと、テレビやラジオ、好きな音楽などを流しっぱなしにして、ながらで気を紛らわすことになり、得るものは少ない。

 

できればエネルギーのある若い時期にこそ、ぐっと溜め込んでいく孤独を知ってほしい。

 

自分を徹底的に磨く、勝負をかける。その時期に、自ら進んで孤独になる。これは、孤独の技法をいうべきものだ。

群れて成功した人はいない。単独者になれるかどうかが問われる。

人は孤独なときこそチカラを伸ばすことができる。

人としての強さは、単独者のなれるかどうかに尽きる。

いい仕事をする、人生を豊かにする。そうした手応えがほしければ、いわゆる「つき合い」を断ることを、人生のある時期に自ら設定することも必要。


本以外の娯楽が極端に増えている現代、本を読むということを技にできていない人が実に多い。読書をしている人としていない人とでは、十年、二十年経ったときに人間としての魅力が全く違ってきてしまう。

 

小学生は家族の中で暖かく包まれている存在だ。さすがに孤独のチカラを磨くには早すぎる。本は読むべきだが、毎日を楽しくお祭りのように過ごす時期だ。

 

人間にとってスピードは一種の快楽だ。

フッサールが説いた「意識は常に何かについての意識である」という志向性、ジェームズが強調した「意識の流れ」などを見ても、意識というものは、いつも向かう方向を求めている。意識が流れ込んでいく先に、常に自己とともに体があるという実感がほしい。

体というものを一つの持ち運び可能な寺院としてみなすことをすすめたい。

もし床の間に置かれたツボのように立つことができるならば、それだけで私達は自分が体と分かちがたく結びついている感覚を覚えて、この世界を祝福できる。

現代日本に蔓延する、ただひたすら孤独を排除しようとする傾向を私はとても残念。

キルケゴールは「孤独とは生命の要求である」と書いた。


実力を飛躍的に伸ばすには、潜る期間を3ヶ月なり半年なり、ある程度まとめて取ることだ。その間に何をするかというのを決めておき、一気にやってしまうといい。そんなふうに集中してことをなす。すると、他の人と成長が違うはずだ。

自分は息をしている存在に過ぎないと思うところまで行けば悟りが開ける。これはゼンの考え方にとても近い。そもそも禅とは典型的な孤独の技法なのである。

愛の孤独こそ人間の感情の豊かさをじっくり味わう時間である。友人から見放されたときは仕事をするのもいい。恋人に見放されたときは?感情の世界に浸る。浸り切る。コレが精神を耕す王道だ。

私にとって孤独のイメージは、自分が偉人たちと地下水脈でつながっている喜びでもある。ゲーテが堀り、太宰治が掘った、壮大な文化や芸術の水脈。この地下水脈は流れがとてもいい。

しかし、一人でいるときにずっと音楽を聞いてメールをしてばかりいるのでは、精神を堀り下げていくことは不可能だ。日々、「ま、いいか」と横にスライドして逃げていくようなもので、平行移動では永久に地下水脈にはたどり着けないのである。

自分は「単独者か」といまでも私は自問自答する。それに「イエス」と答えられる限り、孤独は恐れるものではない。自分を磨き、豊かにしてくれるかけがえのないひとときを与えてくれるからだ。