225.具体と抽象 細谷 功

抽象化とは、このような「デフォルメ」です。特徴あるものを大げさに表現する代わりに、その他の特徴は一切無視してしまう大胆さが必要といえます。

 

抽象化とは複数の事象の間に法則を見つける「パターン認識」の能力ともいえます。身の回りのものにパターンを見つけ、それに名前をつけ、法則として複数場面に活用する。これが抽象化による人間の知能のすごさといってよいでしょう。

 

第2章で、抽象化の代表例として「デフォルメされた似顔絵」をあげましたが、いわば図解は、「世の中の事象の関係性」の「とぎすまされた似顔絵」といってもいいでしょう。目や鼻や口は「同じ形」で表現され、それらの「相対的関係性」(大小関係や位置関係)のみを表現したものが図解です。

 

徹底的に抽象度を高めた学問の代表が数学と哲学です。ざっくり言ってしまえば、抽象化の対象を論理の世界だけで説明するもの、つまり純粋に理論的なものが数学です。これに対して、対象が人間の思考や感情など、理論や論理だけでは説明がつかないものが哲学ということになるでしょう。

 

ただし、「頭の使いどころ」は「高度な抽象概念の操作」という点で一致していますから、同時に数学者であり哲学者として一流の仕事を残している人(デカルトパスカルライプニッツなど)が多いのも十分うなずけます。

 

一般に斬新な製品や、革新的な仕組みを作り上げるためには「多数の意見を聞く」ことは適しません。多数の意見はそれぞれの具体レベルに引きずられて、どうしても「いまの延長」の議論しかできなくするからです。逆に、「いまあるものを改善していく」場面では、なるべく多数の人から多数の意見を吸い上げることが必要になります。

 

抽象度が上がれば上がるほど、本質的な課題に迫っていくので、そう簡単に変化はしないものです。「本質をとらえる」という言い方がありますが、これもいかに表面事象から抽象度の高いメッセージを導き出すかということを示しています。

 

人に仕事を頼んだり頼まれたりするときにも、その人の好む「自由度の大きさ」を考慮する必要があります。

 

「こんな感じで適当にやっといて」と言われて、「いい加減な『丸投げ』だ」と不快に思う人は、具体レベルのみの世界に生きる「低い自由度を好む人」です。こういうタイプの人に、自由度の高い仕事の依頼をしたあとに、「 たとえば こんな形で」と具体的なイメージの例を伝えてしまうと、それを「たとえば」にならず、文字どおり「そのまま」やってしまいます。「たとえば」によって抽象度を下げて上位の概念を伝えようとしている意図が、まったく伝わらないからです。

 

逆に、自由度の高い依頼をチャンスととらえ、「好きなようにやっていいんですね?」とやる気になる人が、「具体 抽象」の往復の世界に生きる「高い自由度を好む人」です。

 

まさに本書の「ピラミッド」の形状が示すとおり、抽象の世界は極めれば極めるほど結論はシンプルになっていきます。

 

「人間は考える 葦 である」の言葉を残した数学者であり哲学者であったパスカルは、友人に出した手紙の最後に、「今日は時間がなかったために、このように長い手紙になってしまったことをお許しください」と書きました。これは「具体の世界のみ」に生きる人には理解できない言葉ではないでしょうか。どこまで「単純化」することができるか、これが抽象の世界のすべてです。

 

複雑な事象を徹底的にシンプルに表現することが「美」であるという点が、具体の世界でいう、たとえば「自然が織りなす複雑な景色の美しさ」とは決定的に異なるポイントでしょう。

 

ネット上の主張でも「◯◯は××だ」と「言い切る」のは、そこで「抽象レベルの方向性」を示しているだけで、「(具体レベルの)すべてがそうだ」と言っているわけではありません。ところが具体レベルのみでとらえる人は、それに対する例外事項をあげはじめて「反論」します。これは、まったくレベルがかみ合っていない議論といえます(次の図)。

 

斬新に見えるアイデアも、ほとんどは既存のアイデアの組み合わせであるとよく言われますが、アナロジーとはいわば「遠くからアイデアを借りてくる」ための手法といえます。

 

アナロジーとは、「抽象レベルのまね」です。具体レベルのまねは単なるパクリでも、抽象レベルでまねすれば「斬新なアイデア」となります。ここで重要になるのが、第5章で述べた「関係性」や「構造」の共通性に着目することです。

 

特許で守れるのは、抽象度が低い、直接的に類似性のあるもののみです。逆に抽象度が高いもの(関係性や構造)であれば、合法的に「盗み放題」です。大抵の人はそれが「盗み」であることにすら気づきません(次の図)。

 

抽象化して話せる人は、「要するに何なのか?」をまとめて話すことができます。膨大な情報を目にしても、つねにそれらの個別事象の間から「構造」を抽出し、なんらかの「メッセージ」を読み取ろうとすることを考えるからです。

 

ルールや理論、法則は、大抵の場合は具体的に起こっている事象の「後追い」の知識だったはずです。ところが、一度固定化された抽象度の高い知識(ルールや法則等)は固定観念となって人間の前に立ちはだかり、むしろそれに合わない現実のほうが間違いで、後付けだったはずの理論やルールに現実を合わせようとするのは完全な本末転倒といえます(前の図)。

 

美術を考えてもわかるでしょう。写実的な作品はわかりやすいので、「理解されない」ことはあまりありませんが、抽象画はそうはいきません。他の芸術においても、「抽象的なメッセージ」を持った作品は、往々にして「賛否両論」になります。この場合、「否」の大部分の人は「理解できない」というのが、その作品を否定する理由といえます。

 

人間はどんなに具体的なことしか見ていないように見える人でも、動物からしたら「めちゃくちゃ抽象的」な言葉を操っています。これが「マジックミラー」の怖いところで、自分がその世界に足を踏み入れてしまえば、そのレベルの抽象概念が自然で不可欠なものになります。ところが前述したとおり、抽象と具体は相対的なものなので、さらに上の抽象の世界があるはずです。その、自分には理解できないレベルの抽象を前にすると、私たちは「わからない」と批判の対象にしてしまうのです。

 

「抽象的でわからない」と言うのは、「小金持ちが大金持ちを笑う」ようなものです。人間は一人残らず抽象概念の 塊 なのですが、自分の理解レベルより上位の抽象度で語られると、突然不快になるという性質を持っているようです。

 

高い抽象レベルの視点を持っている人ほど、一見異なる事象が「同じ」に見え、抽象度が低い視点の人ほどすべてが「違って」見えます。したがって抽象化して考える

 

多種多様な経験を積むことはもちろんですが、本を読んだり映画を見たり、芸術を鑑賞することによって実際には経験したことのないことを疑似経験することで、視野を広げることができます。そうすれば、「一見異なるものの共通点を探す」ことができるようになり、やがてそれは無意識の癖のようになっていきます。

 

具体レベルでだけ数学をとらえれば「直接何の役にも立たない」ように見えますが、抽象レベルで見れば数学の「考え方」はどんな職業の人にも毎日必ず役に立つはずなのです。

 

国語も同様です。日常生活で言語として使うだけなら、「日常英会話」と同様、単語と慣用表現などの「日常日本語会話」だけ学べばよいのです。それをわざわざ膨大な時間をかけて、難解な長文を要約したり、自分の考えをまとめたりする練習をするのは、抽象と具体の往復運動という頭の体操のためなのです。そこが「国語」という教科が、単に「英語」と同列の「日本語」ではない決定的な違いといえます。

 

「大学における『一般教養』の教育が役に立つのか?」という議論も同様です。具体レベルで見れば、「哲学」や「古典」を学んでも「実践的でない」のは明白です。一般教養というのは「一般」教養というぐらいで一般性や抽象度の高い内容であり、これをさまざまな形で「具体化」できるかどうかは、抽象概念をどれだけ理解し、操れるかにかかっています。

 

きっと動物の親子は「学校教育」に血道をあげる人間たちを見てこう思っていることでしょう。 「教科書なんか読んでいる間に、エサを 捕る実践訓練をすればいいのに」と。