192.すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~ 堀江 貴文

でも僕は、「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の眼に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。そんな風に感じたので

 

企業からすると高学歴の人間は、理不尽な作業への耐性が強いという判断になる。いまだ体育会系の学生へのニーズが高いのも、要するに「従順さ」と「理不尽への耐性」が強いとみなされているから


今になって思えば、僕が生意気だったのは、落ちこぼれだったからでも、ドロップアウトしたからでもない。ただ、大人たちが押し付けるつまらない常識に従わなかっただけなのだ。  常識を疑い、常識に背を向けたからこそ、今の自分がある。かくして僕は運良く「洗脳」されずにすんだの


僕は以前、「北朝鮮のミサイル攻撃を恐れて敵対するくらいなら、北朝鮮に軍事開発費の提供をしてしまえばいい」と発言して大炎上したことがある。人間同士なのだから、友好的な関係を築くのが一番だと思っての発言だったが、「北朝鮮なんかにお金をやったらどうなると思っているんだ」という反応を多数もらって驚いた。「非国民」という、例の罵声も山ほど飛んできた。 「外国人は出て行け」「〇〇人は犯罪者ばかりだ」といった暴言を吐く人たちの頭の中にあるのは、「人間は、国家という単位によって切り分けるが可能だ」という考え方なのだろう。  ならばむしろ、「国家なんて存在しない」というフィクションを共有できた方がいいはずだ。そうすれば戦争も、国家や人種を理由にした差別も、その意味を大きく失っていくことに


いや、今だって、すでにそうなりつつあるのだ。僕が国際問題について自由に発言し、それによって「非国民」「売国奴」などとなじられても平気なのは、今この社会において、「国家」や「国民」に昔ほどの価値がないからだ。これが戦時中なら、僕はとっくに特別高等警察に突き出されている。  人間の、フィクションをつくる能力は素晴らしい。それは、テクノロジーの進歩を促し、数々の文化を生み出してきた知恵の泉だ。だが、せっかくのその能力が、どうもまだ十分に使われていないように思えてならない。僕の周りにはびこっているフィクションは、とうに古び始めている。そろそろ、新しい時代のための、新しいフィクションが必要だろ


安保法案について、彼らは「これは戦争を起こすための法案だ。このままでは日本で再び徴兵制が行われる」といった主張を再三繰り返していた。しかし、これは明らかな勘違いである。これまで100%アメリカに依存してきた、人的犠牲を伴う安全保障にかかわる任務を日本も分担する。それが安保法案の定めた内容であり、そんなことは法案をきちんと読めばわかるはずだ。  安保法案を戦争法案と呼び変え、「戦争が起きるから」というだけので否定するのは、「安全保障に関わる任務の中で、アメリカ人の命が危うくなるのはかまわないが、日本人にそのリスクが及ぶのは許せない」と主張することに等しい。日本人の命さえ無事ならばいい、というNにこだわった論理は、僕から見ると不気味で


戦時中は、多くの新聞社が権力に迎合して戦争賛美の方向に流れ、それに煽られた民衆の多くも、やはりその雰囲気に飲まれていった。社会を悪しき方向に押し遣るのは、いつでもこうした「雰囲気に飲まれる」人たちなのだ。だから僕は、彼らのような人たちのことを危険だと思うし、その間違いは指摘し続けていきたいと


ゆるいつながりが社会を回して


おそらく今後、かつて絶対に不可欠なものとされてきた共同体の多くが解体されていくだろう。国民国家(N)しかり、会社しかり、学校しかり、さらには家庭しかりだ。  それぞれぼんやりした形は残しながら、もっとゆるやかでフレキシブルな、集合と離散を繰り返す共同体になっていくと僕は考えている。


理由は簡単だ。閉じた共同体なんて、もう時代に合っていないの


僕は、こうした閉じた共同体こそがいじめの温床であり、あらゆるトラブルの元だと考えている。家だの教室だのオフィスだの、狭い閉鎖空間にいつも同じ顔ぶれが揃って日常を共有していれば、関係が歪んでくるのは当然のこと


「老後の楽しみのために苦しい会社勤めに耐える」という考え方を捨て、「楽しく続けられる好きな仕事を、やる気が尽きない限り続ける」という生き方にシフトすればいい。一つの仕事に飽きたら別のことをし、働くのが本当に嫌になったらそれも中断する。お金がなくなったら、また好きなことをして稼ぐ。そう決めてしまえば、「定年に備える」必要もなくなる。  そもそも、現代人はもう、年齢のことを気にしなくていい時代に突入しているのだ。  テクノロジーの恩恵は、 10 歳だろうが 90 歳だろうが等しく受けられる。

 10 代でも 20 代でも、 30 代でも 80 代でも同じことをしていいはずだ。  人間は、 10 歳ぐらいになればすでに肉体的にも完成しているし、ある程度の知性も育っている。そのくらいの年齢に達したら、あとは死ぬまで好きなことをしていればいい。僕は本気でそう思っている。いちいち年齢で人生を区切り、大学、就職、老後というライフステージのことを考える習慣は、工場労働時代の名残でしかないの

 

 ゆるいつながりが大事というのは、「新ネットワーク思考」に通ずるものがあるなぁ。