224.一瞬で自己肯定を上げる瞑想法 綿本 彰

今この瞬間 ないもの に意識が向かうと、心の中に不足感が芽生え、何となく苦しい気持ちになってきます。逆に、今この瞬間 あるもの に意識を向け、それを受け入れることができれば、不思議なくらい心が満たされ、穏やかになってき

 

瞑想とは、そういった過去や未来の煩わしいことを心の中から追い出し、何かを貪ることをやめ、今この瞬間、目の前にある感覚をただ受け取ることです。  私たちの心は、今この瞬間 ないもの に向かうと、何かが不足しているという感覚に陥って落ち着かなくなり、逆に あるもの を意識すると穏やかで満たされやすくなります。これが瞑想のエッセンスです。

 

瞑想とは、そういった過去や未来の煩わしいことを心の中から追い出し、何かを貪ることをやめ、今この瞬間、目の前にある感覚をただ受け取ることです。  私たちの心は、今この瞬間 ないもの に向かうと、何かが不足しているという感覚に陥って落ち着かなくなり、逆に あるもの を意識すると穏やかで満たされやすくなります。これが瞑想のエッセンスです。

 

心と体が最高のパフォーマンスを発揮するのをただ見守っている境地がZONE。その精神状態こそが瞑想と呼ばれる状態なの

 

そういった境地に脳のコンディションを持っていくには、単純に集中しようと努力するのではなく、心を無にするための物事の捉え方、ありのままを受け入れるための考え方が不可欠になります。そしてそのプロセスを通して、ありのままの自分を肯定する力「自己肯定力」が育まれていくの

 

息を数える「 数息 法」や、妙薬(万能薬)のイメージを使った「 軟酥 の法」など、宗派や師によってはさまざまな瞑想テクニックを使うこともありますが、基本的にはただひたすら瞑想するだけ。目の前のものを、ありのまま観るだけ。それが禅の根幹にある教えです。

 

また、禅には立禅や動禅など、 日々の生活をすべて瞑想として捉え、ありのまま観るよう修行を行います。 そういった

 

つまり、どちらのタイプのヨガもそのゴールは瞑想にあって、 ヨガとは瞑想そのもの、あるいはそれを深めるための方法論である といえます。 Q  瞑想で宇宙とつながれるのですか?

 

まずは感覚的なお話をすると、 瞑想が深まって心が空っぽになったとき、私たちはあらゆるものとつながった感覚を得ます。 自分と自分以外のものとの境界線がなくなり、一切のしがらみから解放されて自由になった感覚です。

 

自分という感覚や認識を作り出しているのは脳の働きですから、当然それが止まると、自分という感覚がなくなります。自己感覚がなくなっても、私たちは何かを知覚することができるのですが、それが瞑想と呼ばれる状態です。    あとは、その感覚をどう表現するかの問題 で、心が空っぽになったという人もいれば、宇宙とつながったと表現する人もいるし、人は生まれたときから宇宙とつながっていて、その感覚を取り戻しただけと哲学的に語り出す人もいます。   私も学術的なお話をする際には、そういった

 

傷つきにくくなり、だから誰かを恨みにくくなり、他者肯定への芽も育みやすくなります。ありのままの自分を肯定することができれば、ありのままの他者を肯定しやすくなり、ひいてはありのままのすべてを肯定しやすくなるの

 

それは、 死ぬまで自分自身との付き合いが続くということです。そんな自分といい付き合いができるようになれば、どれほど生きるということが楽になるでしょうか。 そういった、生きる上でのあらゆるスタートラインになるのが、「ありのままの自分を認めてあげること」なのです。

 

例えば、悲しい出来事があって、それを大切な人に打ち明けたとします。ところが、その人は自分の悲しいという気持ちにまったく共感してくれず、逆に「そんなことくらいでクヨクヨすんなよ」と言われたら、どんな気持ちになりますか? それこそが悲しい出来事ですよね? 「つらかったね」「大変だったね」と、まず自分の気持ちを認めてほしいですよね。正しいとか間違いとかではなく、まず自分の味方でいてほしいですよね。  だからまず、 自分が自分の味方でいてあげることが大切です。

 

な気持ちでいる自分を、自分自身が受け止めてあげることが大切なの

 

私は、今、悲しい。それでいいじゃないですか。その悲しみを消そうとする前に、他でもない自分が自分の味方でいてあげましょう。誰かに気持ちを伝えたら楽になるように、その気持ちを理解してくれる人がいたら救われるように、自分が今どういう気持ちであるか、他でもない自分自身が気づいてあげ、肯定してあげましょう。不思議なくらい気持ちが楽になります。一瞬で自己肯定感が高まります。だからじっくりと時間を掛けて自分の気持ちを聞いてあげて、そして認めてあげましょ

 

東洋では、その身体感覚こそが、イライラやクヨクヨの正体ですよと教えているのです。試しに、 眉間を少しも緊張させることなく、喉や首や肩を完全にリラックスさせ、呼吸をゆったりしながらイライラしてみてください。  無理ですよね?

 

体をトータルにリラックスさせながら、イライラすることはできません。クヨクヨすることはできません。ネガティブ感情のみならず、感情や気分の正体は、身体的な変化、そしてその身体感覚そのものなのです。だから、 その変化や感覚を消し去れば、イライラやクヨクヨを継続できなくなるのです。

 

そしてできれば(ここが大事)、 怒りを引き起こしている原因の方ではなく、自分が怒っていること、あるいはその身体感覚の方に意識を向け、それを肯定するようにしましょう。  私は、今、本当に頭にきている。私は、今、怒っている。自分の怒りと向き合い、その気持ちを肯定し続けていると、怒りはトーンダウンし、さらに肯定を続けると跡形もなく消滅していくから本当に不思議です。そうなれば、落ち着いてそのパワーを建設的に使えるようになるのです。   怒りが湧き起こったら、その怒りを鎮めようとせず、まずしっかり認めること。 怒りの肯定。ぜひ日々の生活にお役立てください。 怒っている自分を、まず、認めてあげよう

 

ネガティブ感情に限らず、この皮膚の内側の世界には「肯定すると消えるもの」がたくさんあります。疲れもそのうちの一つです。

 

そして、もしそれが本当にできたなら、実に面白いことに、ほとんどの疲れは消えます。断言します。疲れを肯定すると一瞬で疲れは消えるのです。  逆にいうと、 多くの人は疲れに対してネガティブな印象を持っていて、そんな疲れを邪魔物扱いする

 

自分だけのわがままは通用しない。それが社会の法則です。だから私たちは、 社会生活を円滑に営むために、自分の気持ちや感情、欲求を抑圧することを覚えます。 覚えるといっても、無意識に呼吸を抑制することによって、本能的に自分を抑え始めるの

 

ヨガや瞑想のマスターたちが、呼吸を使って自分の心をコントロールするのと同じテクニックを使い、でもその制御の方向は正反対でネガティブ。つまり自分の心に抑制をかけるために呼吸を抑制し、育っていくの

 

それが「その人がそう感じたことを尊重する」こと

 

その人が、その作品に対して「面白くない」と感じたことを肯定するのです。言い換えると、自分との「感じ方の違い」を認めるのです。ここが大事です。   この「違い」を認める力こそが、他者を認める最大のカギとなり

 

正しいとか間違いとかではなく、今この瞬間、自分とは違う感性のその人が、今そういう状態でいるという事実を受け入れるのです。「なぜ受け入れなきゃいけないの?」とか、「受け入れたくない」とかではなく、 少なくとも受け入れることができたとき、他でもない私たち自身の気持ちがとても穏やかになります。そして当然のことながら、気持ちを受け止めてもらえた相手も穏やかでいられます。  その人は、今、そうで

 

このすてきな言葉を、いつでも心の中で唱えられるようにしておきましょう。

 

でも、 心の中で誰かを縛り付けることで、実際に縛り付けられるのは自分自身の心。 自分の心の自由を奪い、行動範囲を狭めてしまっているのです。なぜなら、その人のことが気になるあまり、自由に楽しいことを考えたり、気持ちを切り替えて目の前の業務に集中したりということが、できなくなっているわけです

 

その人が、そういう人であること、今そういう気持ちでいることを認めること。でも考えに迎合することではないということ。その人を許せたとき、結局は自分がそのことから解放される というお話をしてきまし

 

なのに私たちは、あの人はあんなに美しいのに、この人はこんなに早く仕事ができるのに、その人はそんなに友達が多いのにと、誰かと自分を比較して、勝手に劣等感に 苛まれ、自分の能力や役割に不満を持ち、自分にとってもチームにとってもストレスフルな状態を作り出してしまうのです。   ありのままの自分を肯定すること。それは、自分の個性をしっかりと見極め、自分の守備範囲をはっきりと悟り、そしてその役割をただまっとうしようとすること。

 

だから主役である必要はないと思うのです。狭い視野でもって自分の評価だけを考えず、より広い視野で桃太郎の劇が素晴らしいものになるよう、「木その一」は「木その一」をただまっとうする。 自分にはこれしかできない、でも自分にはこれはできる、というものをただまっとうすること。それが結果として、自分のハッピーにつながり、自分を含む全体のハッピーにつながっていくのだと思います。

 

「今自分がいる場所で、今持っているものを使って、できることをやりなさい」  これはアメリカの第二十六代大統領である、セオドア・ルーズベルトの名言です。今自分ができることをやれるという幸せ。担えるものがあるという喜び。 今自分が置かれた境遇を肯定し、その場所で自分ができることを尽くすということ。  ついつい私たちは、自分の持っていないものに意識を奪われ、持っている人をねたみ、持っていないことに自己嫌悪を抱きがちな生き物です。でも、そんな発想では幸せな気持ちで生きにくいし、何より桃太郎の劇が進まないのは残念過ぎます。社会(人が二人以上いる世界)が回らないの

 

今自分がどこにいるか確かめなさい。そこで自分に何ができて、何ができないかを見極めなさい。その上でできることをまっとうしなさい、と。  こんな私にできること。それがある喜びを感じ、それをただまっとうする。  その境地こそが、ありのままの自分を肯定することだと私は思っています。 広い視野

 

その答えはズバリ、楽しくはないけれどハッピーです。浮き沈みなく平坦ですが、すごくすごくハッピーです。なぜなら一切の不満、不愉快がないのです

 

多くの方は、特に不満はないけれど、どこか満たされないという感覚を持ったことがあると思いますが、 そういった「何かが足りない」という

 

た不足感さえもないわけです。 そんな境地を、私たちの日常的な感覚で表現するならば、好きな人に抱きついてもう他に何もいらないと感じるとき。あるいは、南国で心地良いそよ風と照りつける太陽の抱擁を受けながら喜びに浸っているような

 

一切の拒絶がなく、不満がなく、否定がないというのはそういう境地なのです。ドラッグに頼る必要も、長年欲しかったものを手に入れる必要もなく、不足感のない状態がずっと続く。少なくとも瞑想が深まった境地とはそういう状態です。序章の終わりのあたりで触れましたが、それが科学的にも証明され始めてい

 

ありのままを観ている人は、楽しくはないけれど、とてもハッピー。  ですから、ぜひ安心してその境地を、ともに目指していきましょう。

 

たちの心のベクトルは普段と180度逆に向かいます。  もらう方から、尽くす方へと逆転するのです。そしてそのときにこそ、最大限の能力が発揮されるということを、改めて痛感した経験でし

 

先を急いでばかりでは、今、目の前に広がっているせっかくの景色を見損ねてしまいます。 また、スマホの画面をスワイプさせながら、過ぎた景色ばかり振り返っていても、今、目の前にあるすてきな景色に気づくことはできません。  

 

その感情を引き起こしている対象の方ではなく、まず自分の気持ちに意識を向け、その味方でいてあげてください。それこそが自己肯定の第一歩なのです。  そして、 そこがはじめの一歩となってゆっくりと自己肯定感が育まれていき、ありのままを認めるのが上手になり、今、目の前にあるものに