219.教えない教え 権藤博

人に〝ものを教える〟というのは本当に難しい。とかく日本人は〝優しい指導〟と〝甘い指導〟を勘違いしている。さらに〝厳しさ〟が〝イジメ〟になってしまっている指導者も

 

できないことをできるまで辛抱強く見守ってやるのが〝優しさ〟である。一方、できるまで待つことができず、「また今度」とか「次にやれば

よ」となってしまうのが〝甘さ〟で

 

厳しさとは、「この世界で生きていくにはこういう練習をして、それに耐えていかなければいけませんよ」と教えること。指導者に求められているのは〝厳しく接する〟ことではなく〝厳しさを教える〟ことなの

 

ゴンドウ。教えてくれるのはありがたい。でも教えられて覚えた技術はすぐに忘れてしまうものなんだ。それとは逆に自分で摑んだコツというのは忘れない。だから私たちコーチは、選手がそのコツを摑むまでじっと見守っていてやらなければいけないんだ」  私はその言葉を聞き、冷や水をぶっかけられたような衝撃を受けた。私も教育リーグに参加する以前からDon't over teachという教えは知っていたが、そのときに初めてDon't over teachの本当の意味を悟っ

 

コーチングをしているとどうしても教えたくなってしまう。指導者や上の立場にいる人間というのは、教えた方が手っとり早く済むからどうしてもそうなってしまいがちだ。

 

でも、真にその人物の成長を望むのであれば、コーチや教える立場の人間はDon't over teachを忘れてはならない。どんな相手であれ、真の成長を望むのであれば丁寧に助言し、我慢強く見守っていく姿勢を保つことが大事なの

 

「目先の勝利にこだわらず、我慢して選手を使う」ことにも気を付けていた。目先の勝利がほしいために選手をスパッと交代させるのではなく、ピンチでも我慢して使い続け、試練を乗り越え

 

ところで、メジャー・リーグのDon't over teachという考え方には、もうひとつ理由がある。それはアメリカが訴訟社会であることと無縁ではない。コーチが教えた通りに選手がやって、成績が思うように上がらなければ選手がコーチを訴える可能性があるのだ。実際にそうしたケースは結構あると

 

全体ミーティングでの長話も厳禁である。チームというのは、個性、実力、ポジションなどが異なる選手たちが集まったものだ。  全体ミーティングの話の中には、ある選手には当てはまっても、他の選手には当てはまらない話なども往々にして出てくる。  下の立場の人間の中には勘違いして〝自分のこと〟としてその話を受けとめてしまうこともあるかもしれない。それは時として下の立場の人間を間違った方向に導いてしまう可能性もある。

 

叱咤 した後にはフォローを入れることも忘れてはならない。「打たれたらどうしようとか、点を取られたらどうしようとか、くだらんことは考えなくていい。それを考えるのは俺の仕事だ。人の仕事をとるんじゃない、お前はバッターと真っ向勝負をすればいいんだ」

 

私が監督をしていたときに、一番大切にしていた姿勢が「責任はすべて監督である自分にある」ということだった。選手たちにも終始一貫してそのことを言い続け

 

酒井氏の「無理せず、急がず、はみださず」という言葉は、私の体にゆっくりと浸透していき、力んですっかり固くなってしまった心を解きほぐしてくれた。あの言葉がなければ、私はあの年、佐々木投手をもっと酷使し、結果的に彼の投手生命を縮めさせかねないことになっていただろ

 

いまでも私の心の中には「無理せず、急がず、はみださず。自分らしく、淡々と」という言葉が存在し続けている。何かに心が 囚われそうになったとき、この言葉が私を原点に立ち返らせてくれるの

 

誰もがとりそうな采配ばかりを 揮っているような監督は真の監督とは言えない。

 

一年を戦い抜くには臨機応変な戦術が必要だし、何より監督は人心掌握術に 長けていなければならない。プロと呼ばれる強者たちが集うチームを率いていくのだから、トップの人間には 強靱 な精神力も求め

 

よく「ライバルをつくる」と言ったりするが、私はライバルはつくるものではなく、見つけるものだと思っている。主体性を持って自分からライバルを見つけて

 

そこでひらめいたのが吉川英治の『宮本武蔵』で読んだ修行の話だった。麻の芽の上を毎日跳んでいるうちに、気付いたら麻の生長とともに人の肩ほどの高さも跳べるようになった、というあの話で

 

メダリストの話は多分にお世辞が入っていたと思うが、実際に私はプロ野球界でもトップクラスの走力を身につけていたのである。  それはすべて社会人野球時代の〝麻の芽作戦〟のおかげである。三日坊主にならず、地道な努力を毎日続けていくことが、大願を成就させる上で最も大切なことなの

 

個性的な人ほど引っかかる感覚を持っているのも事実である。そう考えると「あの人はちょっと変わっている」とまわりから言われる人がひとりやふたりいた方が、集団はいい方へ向かっていく。  トップの人間は、そんなちょっと変わった人間を異端児扱いせず、集団の中での必要な存在として認める度量が求められるので

 

多くを捨てて、ひとつも引っかかってこない場合もたくさんある。しかし、だからといって無理に取り入れるようなことを私は絶対にしない。 〝得る一辺倒〟から〝どんどん捨てる〟方へと考え方を変えていけば、本当に大切なものが何か見えるようになってくるはずだ。  人が生きていく上で必要とされるのは、たくさんの知識や情報を得る力ではなく、何が本当に大切なのかを見極める力なので

 

人間は生き物である。だから常に精神的に一〇〇パーセントの全力状態では生きていけない。一〇〇パーセントを出し切ったらある程度の休養をとらなければ、体も精神も元の状態には戻らないのである。それなのに現役だった頃の私はまわりに言われるがままに、絶えず一〇〇パーセントの全力疾走であっ

 

何事も長続きさせるための一番の理想は「思い切っても八〇パーセント」の状態でいることだ。いつも精神的に一〇〇パーセントの力を出してしまうと、元の状態に戻るのに多くの時間を要することに

 

細く長く生きるには、「思い切っても八〇パーセント」を忘れずに、常に余裕を持って生きる。それが一番大切なので

 

勝負事における緊張は、相手からではなく、自分の中から派生しているということをまず自覚すべきだ。プレッシャーのかかる場面において、「上手くやらなければいけない」、「成功しなければいけない」といった考えに囚われてしまうから緊張するので

 

書店のビジネス書のコーナーを見ても、人を成功に導くとするマニュアル本があふれている。  なぜこうも人々はマニュアルに頼ってしまうようになったのか。  それは、何事にも早急に〝答え〟を求めようとする人々の思考がそうさせているような気がしてなら

 

さまざまなことが複雑に絡み合い、成り立っているこの世の中で、マニュアル一辺倒の凝り固まった対応をしていては突如現れる大波にも対処できないに違いない。  世の中の基本や常識は常に変化している。だとするならば、そこで生きる人々にも、そんな変化に対応する柔軟な姿勢が欠かせない。

 

野球というゲームも、刻一刻と状況が変化し、勝負の流れは絶えず揺れ動いている。ほんの一瞬の判断ミスが、その後の試合の流れを決めてしまうということも往々にしてある。  重要な局面で瞬時に判断を下すには、マニュアルに囚われた〝固い思考〟ではなく、臨機応変に対応できる〝柔らかい思考〟こそが重要なので

 

あのときの藤井投手は〝明鏡止水〟の境地にも似た不思議な感覚に包まれていたに違いない。しかしこの境地は、本人が至ろうと思って至ることができるほど簡単なものではないのも、また事実なので

 

話がちょっと逸れてしまったが、現場のトップの人間が土壇場のときに忘れてならないのは、いかに部下たちを「燃え上がりやすくさせてやるか」だということがお分かりいただけただろうか。せっかくみんなでいいムードになっているのに、ひとりだけシラけている人間がいたら調和が乱れ、いい

 

も台無しになってしまう。  全体の調和を図りながら、暖炉の火がちょうどいい燃え上がり方になるよう 薪 をくべてやるのがトップの役割なの

 

現代社会に 蔓延 している欲にまみれてしまうと、物事の進むべきときと 退くべきときとの見極めができなくなってしまう。たとえば株や為替の取引でも、進退の見極めを誤ったがために 儲けを逃したり、大損してしまったりということがまま

 

将棋の世界で活躍を続けている 羽生 善 治 さんが、「直感で選択したことは七割ぐらい正しい」というようなことを言っていたのを耳にしたことがある。私もそれには同感だ。悩みに悩んだ末に出した答えより、スパッと

 

のようなもので選択したことの方が往々にして正しかったり

 

悩めば悩むほど、そこには邪念というものが入り込んでくる。自分の中に蓄えられた情報や知識といったものに頼りたくなるのは分かるが、一番大切なのは人間が本来持っている〝直感〟で

 

直感というのは、自分の置かれている状況、場の流れ、気配、 諸々 のものを頭ではなく体で感じていくことで磨かれていく。  自然界ともっと密接に関わっていた原始時代の人々は、そういった直感が現代人より遥かに優れていたに違いない。獲物の居場所を突き止める

 

危険を察知する能力など、人間が当たり前のように持っていたそんな感覚を、現代人は閉ざしてしまって

 

しかし本来は人間誰しもが持っていたものなのだから、 錆 を落としていけばその感覚は徐々に取り戻せるはずだ。羽生さんの直感が 冴えているのも、普段からそういった感覚を研ぎ澄ませているからなの


何事にも囚われることなく、「本当にこれでいいのかな」と常に考える。そういう柔軟な姿勢こそが、停滞したいまの時代に最も必要とされているものなのではないだろう

 

野村氏が広めたID野球によって日本の球界も大分変わってきたが、アメリカと比べると日本の野球はまだ〝感性〟が残っている。データを参考にしつつ、最終的には自分の感性やひらめきといったものでその場、その場に対処していく。ストレートを待ちながらカーブが来ても対応できる。  そんな器用さはアメリカ人より日本人の方が優れている。そんな風にしてIDと感性を融合させたものが、現在の日本の野球と言えるのだ。

 

野球に限らず、何か事を成す上でデータというのは非常に重要な意味を持つ。それもただ単に上の立場の人間がデータを押しつけるのではなく、現場で実際に動く人間が自分にとって必要なデータを集積し、そこから何かを学び、自発的に工夫を重ねていくことが大切

 

上から押しつけたデータでは、現場の人間にとってまったく身にならない。納得のできる仕事をするには、自らデータを収集し、そこに自分の感性を加味しながら試行錯誤を続けていくことが最も重要なのである。

 

高校野球にしてもリトル・リーグにしても、〝勝つ〟ことだけを唯一の目標にしてしまって〝戦う楽しさ〟というものを教えていない。指導者のほとんどが「勝ちたいんだったら俺の言う通りにしろ。勝つためにはこれをやっておけばいい」という一方的な教え方になってしまっている。  これではスポーツの〝楽しさ〟や〝面白さ〟は子供たちに決して伝わらない。できない子はなぜできないのか一緒に考え、分かるまで何度も教えてやる、とことん付き合う。そういったことのできる指導者は残念ながらまだ少数派なので

 

「ああいこうか、こういこうか」と、そんなことをあれこれ考えるということは、しっかりと決断ができていない証拠だ。決断ができていないということは相手に怖さを感じ、 怯えているということでもある。つまり勝負の場面で考え込んでいるような選手はすでにその戦いに負けているの

 

確かに、いくら備えがあってもいざ現場に立つと憂いは生じる。しかし、しっかりとした準備をしていれば、いざというときに動じることは少なくなる。慌てずに、落ち着いて対処ができるようになるの

 

プロ野球選手であれば、全体練習から試合にかけての実働時間より、それ以外の時間にどれだけ〝自分磨き〟を行なっているかがポイントとなる。そしてこれは、プロ野球に限らず、あらゆる仕事に対して言えることだと思う。  

 

働きすぎの裏には人間の持つ欲が見え隠れしている。「もっといい物を食べたい」、「もっといい暮らしがしたい」と、向上心という言葉に覆い隠された人間の根深い欲が、働きすぎの日本社会をつくってきたとは言えないだろう

 

プロ野球界に入った当初から「野球にチームワークなどは必要ない。野球は個の技術の集まりである。個の技術が高まれば自然とチームは強くなり、必然的にチームプレイもでき上がっていく」と思っていた。その考え方はいまでも変わら

 

アメリカへコーチ留学したとき、監督にしてもコーチにしても選手

あまり怒らないということに驚いた。ただ怒鳴るだけの 悪しき日本の伝統に染まっていた私から見れば、まったく別世界の野球だっ

 

「権藤君、若手をガンガン怒っちゃいかんよ。怒るならベテランを怒りなさい」  巨人をV9に導いた川上さんは、たとえベテランであっても選手を特別扱いしないことで有名だっただけに、この言葉は説得力があった。

 

しかし、川上さんのこの言葉は、野球界だけでなく、すべての世界に共通して言えることではないだろうか。上の人間を律すれば、自然と下の人間も律することになる。若い芽を伸び伸びと育てていくには、川上さんの言うように、まずは上を律すればいいの

 

 コーチングのプロ。プロ野球もだれに教わるかで大きく人生変わるんだろうな。

落合さんと考え方が似てるような。

考え方の柔軟性は年齢関係なしに人間に必要だよね。