181.人間的な、あまりに人間的な ニーチェ

そもそもなぜ「良心」というものが存在するのか。人々はあたかもそれが正義だの人間の本質だのと信じて疑わない。いやむしろ我々がより人間らしく生きるために不可欠なものだと主張する。

 

だが私はあえて公言したい。そんなものは人間が定めただけの上辺の理論に過ぎない!人間的な解釈に過ぎないと!我々はそれを知ってはじめて健全な魂を取り戻せるのだ!

 

健全な魂を持つ人間であるならば、誰しも自身の持つ自由精神と力の解放を望んでいるはずなのだ。

 

だがそうした生命本来の力強さで生きられる人間は驚くほど少数だ。言う慣ればそれらは選ばれし力を持つもののみに使うことを許された特権なのだ。

 

そして皮肉なことに人間社会はそうした力を持たざるものが大半を占めて成立している。

 

弱肉強食が自然の摂理であるのなら、持たざる者は持つものに依る強奪と捕食の対象となることが運命づけられている。そうこれが自然であるならば・・・だ。

 

だがこうした生存競争の中で持たざる者たちは生き残るために新たな生き方をあみだしたのだ。

 

それが隷従である。持たざる者たちは持つ者たちに生命を保護してもらう代償に服従を誓うのである。

 

こうして人間社会の支配階級は生まれたのだ。

 

一見するとこの取引は公正に見えるが、持たざる者たちが服従を誓った時、彼らは自らあることを放棄してしまったのだ。

 

それは自ら思考し行動する生存活動。生命の自由で自然な生きる喜びである。

 

彼らは生に執着するあまりに生に妥協してしまったのだ。そしてこの妥協は想像以上に人間の精神を蝕むものであった。

 

持つものはいわば人生の勝者である自らを「善」い者とし、持たざる者たちを劣っている「悪」と格付けした。持たざる者たちは自ら選んだ生き方にもかかわらず次第に持つものへの恨みを募らせずにいられなかった。

 

やがて持たざる者たちは恐るべき復習の方法を編み出した。

 

そうして作られたものが今我々を縛り付ける善悪の価値なのだ。

 

つづく