149.私の財産告白 本多静六

そうして、四分の一貯金をつづけていけば、三年目にはこれこれ、五年目にはこれこれ、十年目にはこれこれになる。いまの苦しさは、苦しいのを逃れるための苦しさだから、しばらく我慢してくれと家内の者を説いたのである。 


人間の一生をみるに、だれでも早いか晩いか、一度は必ず貧乏を体験すべきものである。つまり物によって心を苦しまされるのである。これは私どもの長年の経験から生まれた結論である。子供のとき、若い頃に贅沢に育った人は必ず貧乏する。その反対に、早く貧乏を体験した人は必ずあとがよくなる。つまり人間は一生のうちに、早かれ、おそかれ、一度は貧乏生活を通り越さねばならぬのである。だから、どうせ一度は通る貧乏なら、できるだけ一日でも早くこれを通り越すようにした


ハシカと同じようなもので、早く子供のときに貧乏を通り越させてやったほうが、どれだけ本人のためになるかわからぬ。まことに若いときの苦労は買ってもやれといわれているが、貧乏に苦労し、貧乏し抜いてこそ、人生の意義や事物の価値認識をいっそうふかめることができるのである。貧乏したことのある人間でなければ、本当の人生の値打ちはわからないし、また堅実に、生活の向上をめざしていく努力と幸福は生じてこないのである


しかもこれには、少しのムリもなかった。自ら顧みて、ヤマしいところなぞはもちろんない。否かえって、経済的な自立が強固になるにつれて、勤務のほうにもますます励みがつき、学問と教育の職業を道楽化して、いよいよ面白く、人一倍に働いたものである。つまり、この身分不相応な財産のすべては、職業精励の結果、自然に溜まり溜まってきた仕事の粕だったのである。 


しかし、その具体的な説明に入る前に、何事にも成功を期するには、ぜひこれだけは心得おくべしといった、大切な処世信条の一つを披瀝しておく。それは、何事にも「時節を待つ」ということだ。焦らず、怠らず、時の来るを待つということだ。投資成功にはとくにこのことが必要である


しかし、そうした大変動ばかり心配していては、何事にも手も足も出せない。したがって、投資戦に必ず勝利を収めようと思う人は、何時も、静かに景気の循環を洞察して、好景気時代には勤倹貯蓄を、不景気時代には思い切った投資を、時機を逸せず巧みに繰り返すよう私はおすすめする


昔、渋沢栄一翁が埼玉県人会のある席上で、私が例の職業道楽論を一席述べた後に起たれて、 「若い頃自分の故郷に、阿賀野の九十郎という七十いくつになる老人があって、朝早くから夜晩くまで商売一途に精を出していたが、あるとき孫や曾孫たちが集まり、おじいさん、もうそんなにして働かないでも、うちには金も田地もたくさんできたじゃないか。伊香保かどっかへ湯治にでも行ってゆっくりしたらどうですとすすめたところ、九十郎老人の曰く、おれの働くのはおれの道楽で、いまさらおれに働くなというのは、おれにせっかくの道楽をやめろというようなものだ。全くもって親不孝の奴らだ。それにお前たちはすぐ金々というが、金なんかおれの道楽の粕なんだ。そんなものは、どうだっていいじゃないかといわれた。――諸君も本多の説に従って盛んに職業道楽をやられ、ついでに、また盛んに道楽の粕を溜めることです」 と述べられたが、ともかく、金なんて問題でないという人も、あまり粕が溜まってくると、ときとしてどうしたものかといった心配も出てき、はたの連中まで気をもみ出す


いったい、財産をつくる目的の最初は、だれしも生活の安定とか、経済の独立とかにおかれるものであるが、それがいつしか、「子孫の幸福」につながる親心に発するものとなってくる場合が、大部分である。  すなわち、できるだけ多く財産をこしらえて、できるだけ多く子孫に伝えたいといった世俗的な考えに変化してくるものである。恥しながら、私にも多少そうした愚かさが萌さないでもなかった。私もわが子孫の幸福について考えるに、まず子孫を健康に育て、完全な教育を施し、かつ相当な財産を分与してやりさえすれば、それで十分幸福にさせられるものと早合点したのである。これははなはだ間違った考えで、最後の相当な財産の分与などは全く顧慮する必要がなく、それはかえって子孫を不幸に陥れるものだと漸次気付くに至ったのである


「幸福とはなんぞや」という問題になると、少しやかましくなるが、それは決して親から譲ろうと思って譲れるものでなく、またもらおうと思ってもらえるものでもない。畢竟、幸福は各自、自分自身の努力と修養によってかち得られ、感じられるもので、ただ教育とか財産さえ与えてやればそれで達成できるものではない。健康も大切、教育も大切、しかし、世間でその中でも最も大切だと早合点している財産だけは全く不用で、それよりももっともっと大切なのは、一生涯絶えざる、精進向上の気魄、努力奮闘の精神であって、これをその生活習慣の中に十分染み込ませることである


財産がいくらかできてきて、その財産と子孫の幸福とを関連させて静かに考えたとき、私は遅播きながらこうした結論に到達したのである


さらに一歩をすすめて、社会環境というものを考察するに、たとえある程度の財産を分与することが子孫幸福の基となるとしても、今後は遺産相続税率の累進、または国家没収に類する新法案の出現で、事実上これを子孫に譲ろうと思っても譲れなくなる。なおいくらか譲れたとしても、必ず不労所得税などの新設強化で、親譲りの財産などはなんら利益をもたらさないのみか、かえって無用の負担とならぬとも限らぬ。それよりも子孫は子孫をして、おのれの欲するまま、自由に奔放に活動し、努力せしめるほうがどれだけいいかわからぬ。そうであるから、子孫を本当に幸福ならしめるには、その子孫を努力しやすいように教育し、早くから努力の習慣を与え、かつできるだけ努力の必要な境遇に立たしめることであると、これまた同じところへ結論づけるに至ったのである


ここで、私も大学の停年退職を機会に、西郷南洲の口吻を真似るわけではないが、「児孫のために美田を買わず」と、新たに決意を表明、必要による最小限度の財産だけを残し、ほかは全部これを学校、教育、公益の関係諸財団へ提供寄附することにしてしまったのである。この場合、前にも一度あった例にかんがみ、世間の誤解を避けるために、またその寄附に対する名誉的褒賞を辞退するために、匿名または他人名を用いた。  これが、私の考え抜いた上の財産処分法でもあり、またかねてから結論づけていた「子孫を幸福にする法」の端的な実行でもあったのである。


ゼイタク生活の欲望や財産蓄積の希望についてもそうであって、月一万円の生活をする人が二万円の生活にこぎつけても幸福は二倍にならぬし、十万円の財産に達しても、ただそれだけではなんらの幸福倍化にはならない。いったい、人生の幸福というものは、現在の生活自体より、むしろ、その生活の動きの方向が、上り坂か、下り坂か、上向きつつあるか、下向きつつあるかによって決定せられるものである


だから、少しばかり金ができても、早く金持ちになろうとか、急に財産を殖やそうと焦るのは、たとえ一時の小成功を収めることはあっても、必ず最後はつまずきを招くものであるから、何人もよくよく注意しなければならない


人間というものは、金がなくても、金ができても、得てして偏狭になりやすいものだ。大いに心すべきである


私の体験によれば前にもしばしば述べたように、人生の最大幸福は職業の道楽化にある。富も、名誉も、美衣美食も、職業道楽の愉快さには比すべもない


道楽化をいい換えて、芸術化、趣味化、娯楽化、遊戯化、スポーツ化、もしくは享楽化等々、それはなんと呼んでもよろしい


すべての人が、おのおのその職業、その仕事に、全身全力を打ち込んでかかり、日々のつとめが面白くてたまらぬというところまでくれば、それが立派な職業の道楽化である。いわゆる三昧境である。そうしてこの職業の道楽化は、職業の道楽化それ自体において充分酬われるばかりでなく、多くの場合、その仕事の粕として、金も、名誉も、地位も、生活も、知らず識らずのうちにめぐまれてくる結果となるのだから有難い。桂大将のやり方もまたこの「職業道楽化」の最も典型的な一つであったようだ


職業を道楽化する方法はただ一つ、勉強に存する。努力また努力のほかはない


あらゆる職業はあらゆる芸術と等しく、初めの間こそ多少苦しみを経なければならぬが、何人も自己の職業、自己の志向を、天職と確信して、迷わず、疑わず、一意専心努力するにおいては、早晩必ずその仕事に面白味が生まれてくるものである。一度その仕事に面白味を生ずることになれば、もはやその仕事は苦痛でなく、負担ではない。歓喜であり、力行であり、立派な職業の道楽化に変わってくる


実際、商人でも、会社員でも、百姓でも、労務者でも、学者でも、学生でも、少しその仕事に打ち込んで勉強しつづけさえすれば、必ずそこに趣味を生じ、熱意を生み、職業の道楽化を実現することができる。それは私の今日まで体験してきたところでも全く明らかであ


なんでもよろしい、仕事を一所懸命にやる。なんでもよろしい、職業を道楽化するまでに打ち込む、これが平凡人の自己を大成する唯一の途である


世の中には誰もが勝てる勝負がある。しかし、ほとんどの人はそういう勝負には参加をしない。本多静六という人が人生で行った勝負は、その「誰もが勝てるが、ほとんどの人がしない勝負」だった。  世の中には、「知識だけの人」が多い。この本は、きっと「知識だけの人」を見破るリトマス試験紙なのだ