それは、実際の〝営業〟活動をせずに営業活動をするのと同等もしくはそれ以上の効果を生み出すことに成功していたからなのです。具体的には、情報空間(バーチャルな空間、思考空間)も含めた意味での他者との空間、臨場感空間において、私がその空間を実質的に支配できていたということです
あなたがどんな商品を扱っていようとも、営業という仕事をしている以上(本来であれば、営業だけでなく、企画、開発、生産などの仕事はすべて)、あなたは「お客様の未来」を売っているのです。もちろん、お客様が買いたいと思うのは、それを買うことによって得られる「幸せな未来」です
それは、その商品を手に入れた自分が、その商品によってハッピーになっていると思えたときなのです。つまり、商品を手に入れることが主目的ではなく、商品を手に入れたときのハッピーな気持ちを手に入れたいのです
つまり、ものが売れないということは、お客様がその商品を手に入れることで未来のハッピーを得られるというストーリーが描けていないということになります。ハッピーになれるストーリーが描けていないからこそ、「そんなものいらない」と言われてしまうわけです。 ということは、もしあなたがお客様のハッピーな未来というストーリーを描いて、相手に納得させることができれば、必ず売れるということを意味します
人間の認識というのは五感から得られた情報でできています。情報である以上、書き換えが可能です。人間の認識を何らかの操作によって別の認識に換えてしまうことを「内部表現の書き換え」と言います。 この操作は自分に対しても他人に対しても可能です。営業に向いていない自分という内部表現をトップ営業マンの自分に書き換えることもできますし、あなたが売っている商品にまったく興味がなかった人の内部表現を書き換えて、その商品がほしくてほしくてたまらない状態にすることも可能です。とっかかりとしての雑談だけでもできるように、一瞬であなたに好感を持つように内部表現を書き換えることも可能なのです
自分の内部表現を変えるのは、自分の中にある記憶の解釈を変えるだけでできます。 人間の自我というのはそれまでの記憶から成り立っています。記憶も内部表現の一部ですから、解釈とか評価というフィルターを通した形で記憶されています。この解釈や評価を変えてやることで自分自身を変えることができ、同時に自分の周りの世界を変えることができるわけです(具体的な話は第四章で詳述します)
営業の話で言えばまず、相手が居心地のいい、うれしい世界を想定してあげて、その世界の一部として売りたい商品を置いてあげます。この世界を想定して、相手の6つのモーダルチャンネルにそれを示してあげればいいのです。
いま、6つのモーダルチャンネルの話をしましたが、実は6つの中でも強弱があります。個人差はありますが、一般に視覚が最も強く、言語が最も弱いのです
だからこそ、家のモデルハウスがあったり、車のショールームや試乗会があったりするわけです。言語で説明するのではなく、実際に見て、触って、エンジンの音を聞いたりして(家や車をなめる人はいないと思いますが、商品が食べ物の場合の試食会だったらあり得ます)、イメージを広げてもらうのです。 普通の営業ならば、写真を見せるというのが一般的でしょう。そのとき、できるだけ言語は介在させないで、相手が自分でイメージするように操作するのがいいでしょう
たとえば、先ほどの例のような家族でキャンプに出掛けることに幸せを感じる人に、「この車なら家族がゆったり乗れる上にあれもこれもそれも全部積めるので、キャンプに最適です」と言う代わりに、そういうシーンの写真を目の前にポンと置いてあげるほうがいいわけです
人がエッチをしたがるのはエッチが気持ちいいからではありません。気持ちいいときにだけ報酬系の脳内伝達物質が働く(エッチをする前にはドーパミンが出ない)なら、太古の昔、肉食獣がそこにいるかもしれない状態の中で、あえて生命の危険を冒してまでエッチをするというのは不自然です。 なぜ太古の人類は無防備な状態で生命の危険を顧みず、エッチをしてきたのか。それはエッチが気持ちいいからではなく、エッチができるかもしれないという気持ちになったときに脳内にドーパミンが出て、期待と興奮を呼び起こすからなのです。 つまり、脳内伝達物質によるプライミング状態をつくれば、まだ手に入れていないのに手に入れたときの快感を期待と興奮をもって感じることになるわけです。
なぜなら、「競合製品がある」とお客様に思わせないことが営業で成功するポイントだからです。「競合製品がある」と思われてしまったら、そこから先はファクトベースの戦いになります。つまり、スペックなどの比較によって本当に商品力のある商品かどうかが問われることになるわけです
何度も言いますが、「相手の未来の幸せ」を売るのであれば競合製品はありません。競合製品がなければ、そもそも接待など必要ないのです。
つまりこの「僧侶お布施の法則」のように「むしろ高いお金を出したほうがハッピーになれる」と思わせることができれば、価格が折り合わないなんてことははじめからありえないわけです。
もっと露骨に脅すケースもあります。霊感商法と呼ばれるものがそうでしょう。 「このツボを買わないとあなたは不幸になりますよ」などと言って恐怖心をあおります。 また、少し前に問題になったリフォーム会社の営業なども同様です。 「柱が腐っています。リフォームしないと家が崩れますよ」とか「家がゆがんでいます。地震が来たら間違いなく倒壊します」などと言って脅し、必要のない修理をさせてしまうという手口です。 このように脅しというのはやり方によっては強い効き目を発揮するのですが、営業としてはフェアじゃありません。霊感商法や不要なリフォームなどは完全に詐欺です。 ですから、実際に営業マンがやるべきことは脅しではありません。 ラポールを生み出すためには、強い臨場感空間を共有すればいいわけです。脅しは臨場感空間を共有するためのひとつの方法ではありますが、そんなアンフェアなことをしなくても臨場感空間を共有する方法はあるのです。
暗示はもっと直接的なものでもかまいません。「今日こそはよろしくお願いしますよ」とか「今日は絶対に契約をいただきますよ」とか、あるいは「今日は、すばらしい商品をお持ちしたんですよ」なんていうのでもいいと思います。これによって相手は「ああ、今日は契約をしないといけないんだな」「ああ、今日はすばらしい商品を持ってきたんだな」と思い込んでしまうのです
友達関係とか言うことをきかないとか、そんなレベルならまだいいのですが、「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉のように敵対感情が出てくると「あいつは俺の信頼を裏切りやがった」という思いが膨らんでしまいます。こうした敵対感情を〝ネガティブラポール〟と呼んでいます。このネガティブラポールのマネジメントに失敗すると、臨場感空間の支配者だったにもかかわらず、被支配者に裏切られてしまうことがあるのです。 イエスの12人の使徒の1人、イスカリオテのユダがイエスを裏切り、イエスは磔となりますが、心理学分析として言えば、私はこのユダの裏切りストーリーはイエスがネガティブラポールのマネジメントに失敗した出来事として解釈できます。だとすると、イエスほどの人物ですら失敗してしまうほど、ネガティブラポールのマネジメントというのは難しいということになります
たとえば小泉純一郎元首相がいい首相だったか、悪い首相だったかと評価しようとしても誰もできるはずがないのです。「郵政を民営化し、道路公団を民営化したから、いい首相だった」とも言えますし、「郵政を民営化して郵貯の金を外国に流れるようにし、道路行政も核心部分はまったく改革することができなかった」とも言えるでしょう。 同様に、マザーテレサの活動は成功したのか、失敗したのかと問われても答えようがありません。「彼女は貧しい人々を救う活動をしたり、世界平和のための活動をし、多くの人が救われた」と考える人は大成功だったと言うでしょう。しかし、「彼女があれだけ頑張っても世界から貧困も戦争も差別もなくなっていない。むしろ、マザーテレサ以前と以後を比較してみると、アメリカはより悪い国になってしまった。結局、影響を与えられなかった」と考える人は失敗だったと言うかもしれません。 つまり、ある出来事、あるタスクに対して、他人が客観的に評価できる基準というのは存在しないわけです。ある見方をすれば「いい」となり、別の見方をすれば「悪い」となるのです。 これがわかっていないと、ある基準(それすらも怪しいですが)によって「おまえはダメだ」と評価されただけで「ああ、私はダメなんだ」と思い込んでしまうことがあるのです。本当ならできたはずのことでも、「おまえはダメだ」「おまえにはできない」という評価を受け続けてしまったがために、やる前から「私にはできない」と本気で自分に自分の限界を与えてしまうのです。
これは仕事上の話だけではありません。人生においてなんらかの夢を抱くことはとても大事なことですが、夢を抱こうとした瞬間に自分で「いや、でも、私には無理なんだ」と言って諦めてしまうこともあるのです。それはあまりにも悲しいことだと思います
たとえば子どもの頃、親とレストランに来て「騒いだらダメ」と叱られ記憶があるとします。これがその人の中で大きくなってしまうと、人前で大きな声を出したり、大きな音を出したりすることができない人間ができあがってしまいます。つまり、歌手になりたいとか、政治家になりたいと思っても、この記憶が邪魔をして、人前で歌ったり、演説したりすることができない人になってしまうので
叱られたのではなく、レストランでおとなしくしていたことをほめられた場合も同じです。レストランでは騒いではいけない、おとなしくしなければいけないと言われているのと同じだからです。 子どもというのはレストランだろうと、電車の中だろうと、道端だろうと、基本的に騒ぐものなのです。つまり、騒ぐに決まっている存在をわざわざレストランに連れてきた親の行為自体が間違いです。自分がレストラン食事をしたいからという親の欲望を満たすために、本来、騒ぐのが当然である子どもを騒がせないようにしようとしているだけで
もし、そう考えるのであれば、それを子どもに伝えて、納得してもらうべきなのです。 「食事中に立ち歩いたり、騒いだりしたら、消化に悪いし、おいしくないでしょ」と言えばいいのです。 しかし、たいていの親はそうはしません。 「こら、騒ぐな!」とか「おとなしくしなさい!」などと怒鳴りつけてしまうのです。これはまさにドリームキラーそのものです。 親が騒いでいる子どもを叱るのは、自分が恥ずかしいと思うからです。他の客に「あの親は子どもを騒がせる親だ」と思われるのが恥ずかしいのです。実際には周りは、子どもを怒鳴りつける行為のほうに眉をひそめているにもかかわらず、親は怒鳴りつけるのが正しいと思ってしまっているのです。本当は自分の煩悩を子どもに押し付けているだけなのに、それが教育だなどと勘違いしている親があまりにも多いのには困ったものです。 怒鳴りつけたとき、親が「私が恥をかくから騒ぐのはやめなさい」と言っているのだと、子どもは敏感に察知します。そうすると、子どもの無意識は「人前で自分がやりたいことを自己主張することは恥ずかしいことなんだ。少なくとも私の大好きなお父さん、お母さんは恥ずかしいって思うんだ」と感じ取ってしまうのです
だから、人前で発言できない大人とか、初対面の人に営業をかけられない大人を作るための第一歩は、レストランでおとなしくさせることから始まるのです
レストランの例で見たように、多くの場合、親や教師が子どもに言うことは子どものためではなく、自分のためなのです。また、本気で子どものためと思って言っているとしたら、親や教師が社会に完全に洗脳されてしまった結果だと言えま
レストランで騒ぐような子は反社会的な人になってしまうと思って、子どものために叱るという論理ですが、それこそが社会に洗脳されているのです。社会的な行動こそが正しくて、反社会的な行動は悪だと洗脳されています。社会そのものが絶対的に正しいのであれば、そういう論理も成り立つかもしれません。しかし、今の親たちが作り上げたこの社会が絶対的に正しと果たして言えるでしょうか。 社会福祉のための年金はどこへ行ったかわからない。便利な道路をつくるための財源を無駄遣いしまくる。日本を守るはずの防衛省の事務次官が賄賂をもらいまくる。こんな社会が正しいなんて誰が言えるでしょうか。 社会は権力ピラミッドの上へ行けば行くほど腐っています。人にとって最も身近な上の人は親です。つまり、親のほうが子どもよりも正しいという論理は成り立たなくなっているのです。 むしろ、社会に洗脳されていない子どものほうが正しい可能性が極めて高いと言えます
ですから、評価関数が変わるということは自我が変わることを意味します。自分が決めたゴールとか、今あるべき現在にとって、過去の出来事が重要かどうかがわかってくるので
このラベリングによって自我を変えると、自分を縛っているものから自由になることができます。営業の仕事をする上で、自分が苦手だとか、これは不得意だと思うことがあったら、それは過去にドリームキラーによって刷り込まれた可能性が高いわけです。それを取り除いてやれば、苦手意識とか不得意だと決め付けて逃げるといったこともなくなっていきます。 こうして評価関数を変えていくことで、自由度の高い営業マンになれます
頑張らずに自然とやる気になってしまうサーモスタット式モチベーションアップ法。ポイントは「目標を達成している未来から逆算した現在の自分」を「細かく、リアルに」イメージすることです。
この本能をコントロールする方法は主に二つあります
ひとつは新しい場所、新しい人間関係であっても、これまで知っている場所、人間関係と何ら変わらないと頭で考えるというものです。どこへ行っても自分の家と同じように振る舞える人がいます。こういう人は初対面の人でも知人でも同じであるという見方ができるのです。そうやって、本能を思考でコントロールするのです
人間は抽象思考ができる動物です。どこへ行っても自分の家のように振る舞える人、初対面の人に会っても知人と同じような気持ちで接することができる人、こういう人を「抽象度の高い思考ができる人」と言います
抽象の反対は具体ですから、抽象度が低いものは具体度が高く、抽象度の高いものは具体度が低いとも言えます。 このとき、「六本木」をよく知っている人がまったく知らない「赤坂」や「新橋」に行って仕事をすることになったとします。知らない場所なので、ステータス・クオを維持したい本能がリスクを感知し、緊張したり、萎縮したりして、普段の力が出せなくなりがちです。しかしここで、「六本木だって赤坂だって新橋だって、同じ港区じゃないか。だったらよく知っている場所と何も違いはない」と思える人は緊張したり、萎縮したりしないのです。この考え方が抽象度の高い思考です。
「キリスト教だ」「イスラム教だ」といがみ合っていても、もし「どっちも宗教じゃないか」と考えられれば、いがみ合う理由がなくなります。残念ながらそうならないのは、多くの人がこうした抽象思考をできずにいるからでしょう。 サッカーの試合はホーム&アウェイ方式といって、自分のホームグラウンドと相手のホームグラウンドの両方で試合をするのが一般的です。これは、サッカーではホームグラウンドで試合をするチームのほうが有利だと経験的に明らかだからです。これも、ステータス・クオが関係していると考えられます。 まれにアウェイのグラウンドでもパフォーマンスを落とさずにいいプレーができる選手がいますが、そういう人は「どこでやっても同じサッカー場じゃないか」という抽象思考が、無意識のレベルでしっかりとできている人だと言えるでしょう
このように、初対面の人に会うときでも「初対面でも知っている人でも、同じ人に違いないじゃないか」と抽象思考し、自分の無意識までしっかりとそう感じることができていれば、緊張したり、萎縮したりせずにすむのです。またはアウェイの場所を何度もイメージの中で体験してより慣れ親しんでおく、というメンタル=リハーサルの方法も脳内で抽象思考を行うのと同様の効果があります。 本能をコントロ
ホメオスタシス同調の話はすでに何度か書きましたが、自己実現している人と会うことでその人とのホメオスタシス同調が起こり、あなたも自己実現しやすくなるはずなのです
正しい答えは「会社は株主のもの」です。これは資本主義の基本です。会社に関する法律である商法をきちんと読めばわかります。
別に悪口を言うつもりはありませんが、これに対して松下幸之助は経営理念(綱領)の中で「社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す」と述べています。 逆説的ですが、この理念が最初から従業員を騙す目的で記されたのなら何ら問題はありません。経営者は社員を騙して奴隷として働かせようとするのが資本主義というものだからです。ですが、松下幸之助の場合、案外、本気でこんなふうに思っていた可能性があります。つまり、「企業は利潤追求ではなく、社会貢献に力を入れるべきで、利潤はその結果としてあとからついてくるものだ」と考えていた可能性があるのです。 これは株主資本主義のルールからすると反則なのです。もし本当に社会貢献がしたいのなら、ソーシャル・アントレプレナーの形態を取るべきであり、松下電器は株式を上場するべきではなかったでしょう
営業だけアウトソーシングするというパターンは、アメリカでは一般的です。VAR(バー=Value Added Reseller)という営業のプロ集団がいるのです。
アメリカでは営業なら営業のプロ、企画なら企画のプロ、マーケティングならマーケティングのプロ、社長業なら社長業のプロというように、その道のプロがたくさんいます。完全に個人事業主で、今年はこの会社で働こう、次はここで働こうというようにして、会社を渡り歩くのです。もともと個人事業主なので、日本人がイメージする「会社を渡り歩く」ということとは少し違うかもしれま