135.負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術 柳生 耕一平厳信

凌駕すべきは、他人ではなく他ならぬ自分自身。相手との争いに勝利するためではなく、自身の心と向き合い、昨日の自分に勝てるように日々向上を目指して努力する大切さを説いているのです。  石舟斎は同じく家憲で「これを仰げば弥々高


どんなに努力をしても次々と険しい山々、超えるべき高い目標が現れてきます。けれど、高き頂に挑み続ける気持ちを死ぬまで忘れてはならないのです。


ライバルを外に求めるのも悪くはないのかもしれませんが、それでは相手に左右される部分も出てきます。他人に惑わされないためにも、自分自身に向き合って心身を高めていく。それが柳生新陰流の流儀なのです。  昨日の自分に今日は勝つ。その精神でつねにベストを尽くし


他人ではなく、昨日の自分に勝ちなさいという家憲のさらにその奥には、自分と他人という区別を乗り超えろという教えがあります。  その背景には、柳生新陰流が持つ壮大な世界観があります。  


は石ころなどの無生物と生き物を区別しますが、石ころも生き物も元を正せば出所は同じ。宇宙や地球を構成している元素から作られています。まして同じ人間同士ならもっと近しい存在です。  あえてそういう壮大な視点に立って物事を俯瞰すると、大自然のなかでは、敵と味方、あなたとわたしという二元的な対立関係はなくなるのです。  これは「自他不二」「万物同根」という考え方で、仏教の教えにも通じる面がありますが、この境地こそ当流が最終的に目指すところなのです


勇気は「浩然の気」を養うことにも通じます。  浩然の気とは孟子の言葉で、「天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気」(大辞泉)です。  孟子は浩然の気の説明として「きわめて大きく、きわめて強く、まっすぐな正しい心で養って、損なうことがなければ、天地の間に充満する。宇宙自然と合一した境地だ。その気は正義と人道と一体となっており、これがなければ気は飢えしぼんでしまう。気は義を繰り返し行うことで生じるもので、たまに義にかなうことを行ったからといって得られるわけではない。自分の行為のなかに、心にやましい物があれば気は飢えしぼんでしまう」と説いています。  


勇は、自身の良心に従い、自らを厳しく律する行いをコツコツと積み重ねて養っていく必要があります。これは武道の基本でもあります。  稽古中に留まらず、日常生活においても良心に恥じるような行いを謹みます。  孟子が指摘しているように、一度でもずるをするとそこで緊張感が切れて気持ちが萎えてしまうので、誰にも恥じることのない生活態度を生涯続けます。そうしてようやく知、仁、勇が得られるのです


このように柳生新陰流兵法の極意は、儒教で言う「五常の徳」、すなわち仁(思いやり)、義(人として行うべき正しい道)、礼(礼儀と感謝の心)、智(物事の善し悪しを理解して判断すること)、信(ウソをつかないこと)をいつも心掛ける点にあります。  また、「温良恭倹譲」、すなわち温かみ、素直さ、恭しさ、控えめさ、他人を立てることは当流の掟でもあり、人材育成の指針となります


この三つについては「怒りや恐れといった感情に左右されない純粋な心こそが、敵の千変万化の働きに対して自在に応じる原動力になる」という解説がありま


敵と味方、生きているものとそうでないものを区別しないのが、誰しもが始めから秘めている本来の心であり、その境地に達したときに自分が主導権を握るというのです。 不断の心に持つ


相手に対する恐れ、攻撃したいという焦り、防ぎたいという受け身の心があると、心が固まって敵情を的確に摑めなくなり、敵を働かせてから勝ちを得るという活人剣ができなくなります。そこで、この三つの心を相手に捧げて無心になりなさいと教えているのです


『始終不捨書』では、戦いや稽古の場のみならず、四六時中、日常生活のなかで危ながる心をなくして、平常心で過ごせるように精神的な鍛錬をしなさいと教えています。普段からつねに覚悟しておくと、いざというときに動揺しないということです


つられるのではなくて、主体性を持ち合わせて動きなさいと注意してい


斬り相いのときに闘争心が湧いてくると、「こう戦いたい」「こう斬りたい」「こう防ぎたい」という感情が出てきます。しかし、そのように激しい私情が生まれると素直な気持ちでいられなくなるので、相手の意図を察するゆとりがなくなります。  負けたくない、どうしても勝ちたいという気持ちがあると心に波紋が広がり、曇りのない鏡に映すように相手の心がくっきりとは見えてきません。


要以上の闘争心は無用なのです


創造的な稽古を繰り返すと、昨日まで見えなかったものが見えてくる気づきの瞬間が訪れます。己の鍛錬は果てしなく、続く山々は険しいので、すぐに次の課題が見えてきます。しかし、つねにポジティブで強い問題意識があれば、次の答えも必ず見つかるのです。


目で見て(視)、心に照らして見て(観)、そして推し測る(察)。兵法でも同様に目で見て、心で見て、状況を推し量るのが大切だと言っているのです。 「抱三ツ」は、石舟斎の『没茲味手段口伝書』にも次のように出てきます。 「空之拍子之事付抱三ツ有」  こちらの「抱三ツ」は、敵が打ってくれば押さえる、引けばついていって


勝つ、働きがなければわが方から打って勝つという三つの攻め方を指します。  迎え(誘い)を出すと、それにつられて相手の心のなかに誘いに乗ろうという兆しが生じます。その兆しが生じたところを斬る気配を感じさせない「空の拍子」で打ちま


心理的なコミュニケーションで優位に立つと、斬り相いでも優位になります。  自らの心は曇りのない鏡のように相手の闘争の情を映して、こちらは闘争の情がない処女のような柔らかな心を相手に移します。  斬り相いとは闘争の情と情とのぶつかり合いで、情が強い方が勝つと考えるのが普通でしょう。しかし、闘争の情をみじんも感じさせず、処女のような無垢な心を相手に投げかける


理解できる範囲が広がれば、また違う世界が見えてきます。習い、稽古、工夫と進んだら、再び習いに戻って次のレベルへ挑む。その繰り返しで不断に努力しながらさらなる高みを目指してほしい。  それが、始まりと終わりがある直線ではなく、始まりも終わりもない円上にある三つの点に込められた思いでしょう


千五百年ほど前に書かれた中国の兵法書孫子』に「昔から戦いに巧みな者は、敵が味方を攻撃しても勝てない態勢を作っておいてから、敵が態勢を崩して味方が攻撃すれば勝てる態勢になるまで待つものだ」とある通りです。  


敵の拍子に左右されず、いわば敵を捨てて独往独来、主体的になって戦いなさいというのが、この項目の主眼です


最後の「外ルル物一ツ有」というのは、心を意味しています。心が外れる、すなわち心が乱れるのが最も悪いと諭しているのです


は勇気、身がかりは身体的な教えのことですが、それ以外の技術的な教えを捨てて超えろと示唆しています


そういう人間の習性を踏まえて、学ぶことで失うものがあることを理解して、学びを超脱する姿勢を持つように戒めているのです。  学んだ内容を思い切って一回捨てるくらいの覚悟で臨まないと、目に見えない教則でがんじがらめに縛りつけられるように、心身ともに動きが取りにくくなります。先達はそれを恐れたのです


剣術では、身体と太刀、手と足が一体となり、バランス良く動くのが理想です。  ところが、人間というのは相手を斬りたいと気がはやると、身体と太刀、手と足がバラバラになりがちです


たとえば、日本人は食事で箸を使うとき、その存在を意識していません。手と箸が一体化しているからこそ、魚から小さな骨を外すことができま


し、ご飯粒だって一粒ずつつまめます


太刀という道具と自らを一体化する「刀身一如」、心と身体を一つにする「心身一如」こそが性自然の目指すところ。動きを作ろうと意識した段階ですでに自然な働きから外れています。人として自然に備わったあるがままの働きを尊ぶという意味で、それを「性自然」と称するのです。


太刀を持たない無刀のときに、刀を持つ人の気持ちになる。それは相手と自分が一つになるということで、これが「自他一如」です。  この境地に達しないと無刀は成就できないのです。  相手は太刀を持ち、こちらは無刀という不利な状況下では、なかなか勝機をつかむことは望めないでしょう。けれども、そのときに必要以上に焦ったり、不利に思ったりせず、敵の気持ちになり、斬りやすいように誘いを出し、斬り込ませて、そして対応するのです。  


持たない分、相手の気持ちを汲み取らないと勝機は得られない。無刀という究極のシミュレーションを介して、真剣勝負の本質をよく考えてみなさいということです。  よろずを無刀斬り相いの状況は目まぐるしく変わります。でも、戦いの流れに逆らわずにその本性を悟れば一喜一憂することもない。そういう心持ちでいないと相手に対応できないという戒めです