140.私は株で200万ドル儲けた ニコラス・ ダーバス, 飯田恒夫

内部情報に明るい連中がお金を引き上げる時期に合わせて、カモたちの細々としたお金が入ってくる。カモたちは一番乗りで最も多額の投資をすることはあり得ず、一番あとに最も少額の投資をする。小口投資家の取引参加はあまりに遅すぎるうえ、その投資金額がいつもあまりに少額なので、いったんプロが撤退してしまうと実体のない高値を支えることができなくなる


マーケットに対して純粋にテクニカル分析で臨むのが有効だと納得するのに、この経験が何よりも役立った。つまり、価格動向と出来高を注意深くチェックし、ほかのすべての要因は無視することで、良い結果が得られるであろうということだ。  そこで、このやり方に切り換えた。注意を価格と出来高のみに向け、うわさや秘密情報、ファンダメンタルズに関する情報はすべて無視するようにした。価格が上昇しても、その裏にある理由を詮索するのはやめようと決意した。ある企業についてファンダメンタルズが好転するような事情が生じても、それを知った多くの人々がその株を買いたがるだろうから、すぐに株価と出来高の上昇になって表れるだろう。エム・アンド・エム・ウッドワーキングのときのように、こう
た上向きの変化をごく早い時期に見つけだせるように目の訓練ができれば、理由を知らなくてもその株式の値上がりに参加できる


それと同様に、普段はおとなしい銘柄が急に活発になったら、これは異常だと気づくだろうから、それで価格が上がればその株式を買えばよいのだ。通常ではない動きの裏に、何かしら相当の情報を持っているグループがいるはずだ。そ
な株を買えば、わたしも利益という恩恵を受けることができるだろう。  このアプローチによって、成


人間と同じように、株の行動様式もそれぞれ異なっている。ある株式は、物静かで、動きがゆったりとしており、保守的である。また、落ち着きがなく、神経質で、緊張状態にある株がある。動きが予想しやすい株もある。その動きが首尾一貫していて、振る舞いが理屈にかなっている。まるで頼りになる友人のようだ


これと同じように、市場における歴史的な大転換を、それが起きようとしている時期に感知するなどということが自分にできるわけはないと思った。ウォール街で価格が続落しているときに、ストップロス・オーダーで早めに避難するというわたしの戦略が効を奏して、そんな感知能力など必要なかったことが次第に理解できたので、これはすごいことだと思った。 


わたしにとって最も重要なことは、相場が下落するかもしれないという手掛かりを、まったく何ひとつ持っていなかったことだ。情報が手に入るわけがない。なにしろ、いつもはるか遠隔の地にいたのだ。予想を聞くこともなく、ファンダメンタルズを研究することもなく、うわさが耳に入ることもなかった。わたしは単に株式の動きに基づいて避難したのだ


結論は明らかだった。マーケットが良くないにもかかわらず、資本はこういう株式に流れ込んでいる。犬が臭いを追跡するように、資本は収益の改善を追い求めている。わたしはこの発見によって、まったく新しい観点からものが見えるようになった。  株式は収益力という主人に仕える奴隷だというのは事実だと思った。したがって、どんな銘柄でもその動きの背後には無数の理由があるだろうが、注目するのはただ一点だけに絞ろうと決心した。それは収益力の改善、あるいはその見込みがあるかどうかということだった。


ゼネラルモーターズクライスラーなど進取の気性に富んで成長途上にあった企業も、当時はまだ比較的小規模だった。この時代にこれらの企業の株主になり、成長時期を通じて保有を続けた人たちは大儲けした。この種の株式は現在では安定期を迎えている。先を読む投機家向きではない。  こういう考え方は今でも通用する。一般的に言って、将来の力強い発展が確
視されている企業の株は、その他と比較して高いパフォーマンスを示すはずだ。時代に呼応した健全な株は、二〇年後には二〇倍に値上がりしているかもしれない

 

これはいわゆる高値圏取引と呼ぶ手法の準備段階だった。新高値を付けそうな銘柄を探し、それが発射台に乗せられて打ち上げ準備が整えられるのを、精神を集中して観察した。こういう銘柄の株価は以前よりも高くなっているだろうし、特に初心者の目には高すぎて手が出ないだろう。しかし、その株価はさらに高騰する可能性がある。高く買って、それをもっと高く売ろうと思った。苦労して得た訓練成果を発揮して、高額な割にはお買い得な、動きの速い株を探そうと一生懸命だった。最初にマーケットが好転する兆しが見えた時点で、こういう株が値上がりするのは間違いないと思ったので、絶えず気を配っていた


しかし、うすうすと感じていたことがひとつあった。それはマーケットの以前の主導株は、おそらく二度と主導株になることはないだろうということだった。過去の銘柄はすでにその役割を果たし終えたので、投資家に大金を稼がせた、かつてのあのまばゆいばかりの高値に達することは、少なくとも当分の間はないと思った


一瞬迷ってもう少しで売るところだったが、思いとどまった。このときまでには忍耐力を鍛えていたし、いちばん初めに買った株式については一株当たり二〇ドルの利益を稼ぐことは簡単だったので、早まって利食いをしないように静観することに決めた


自らの理論に従って直ちに追加で五〇〇株を買った。その価格は二六一/八ドルだった。この二回の取引では新しい五〇%の委託証拠金率を利用した。  株価は申し分のない展開を見せた。つまり、最初は[二八/三〇]であったものが[三二/三六]のボックスへ入る展開になった。


含み益が増えていくのを見ながらも、わたしは株価上昇を追いかけてストップロスという保険を引き上げることを片時も忘れなかった。最初は二七ドルに、やがて三一ドルに引き上げた


六週間後に受け取ったニュースは、ある意味で一万ドルの利益よりもわたしを有頂天にさせた。それはわたしの方法論をテクニカルな面で完全に裏付けるものだったからだ。それは、アメリカンエキスプレスがダイナースクラブの競合者として発足することを公式に発表したというニュースだった。これこそ、株価が三六ドル近辺で足踏みしていた理由だった。発表よりも先にこのニュースを知った一部の人たちが売りに走ったのだ。この事実を知らないまま、わたしも売り払った連中の仲間になっていたのだ。  極東の地で、ライバル会社の設立が進んでいたことは知るよしもなかった。だが、価格の動きに基づいたわたしの投資手法のテクニカルな側面が、脱出の警告を発したのだ


わたしが群衆に従ったときにとったのはこういう行動だった。一匹狼であることをやめて、毛を刈り取られるのを待つ子羊のように混乱し、興奮して仲間とともに右往左往するだけだった。周りの人が「イエス」と言うのに、わたしだけが「ノー」とは言えなかった。ほかの人が怖がるときは、自分も怖くなった。他人が希望を持てば、わたしも期待が膨らんだ。  こんなことは初めてだったし、初心者時代にもこんな経験をしたことはなかった。投資技術と自制心をまったく失ってしまった。手をつけたことは万事裏目に出た


わたしの行動はまるでずぶの素人のようだった。慎重に作り上げたシステムは崩壊した。取引はすべて壊滅的な結果に終わった。ちぐはぐな注文が何十件にも達した。五五ドルで買った株式は五一ドルに値下がりし、それでも手放さなかった。ストップロスはどうなったのか? 最初に放り出した。忍耐、判断力はどこへ行ったのか? いずれもどこかへ消え失せた。ボックスはどうしたのか? すっかり忘れてしまった。  日がたつにつれて、わたしの投資活動の悪循環は次のような様相を呈した。


またブローカーには、わたしが求めていないときはたとえそれがどんな銘柄であろうと、その価格をわたしに知らせいように頼んだ。彼らに新規銘柄を通知させてはいけないのだ。これはすぐにうわさと同じたぐいの情報になってしまうからだ。


バカげた行動によって受けた傷跡はまだすっかり癒えてはいなかったが、ひどい経験をしたあとでいっそう力がついたような、爽快な気分になった。わたしにとって最後となる教訓を学んだのだ。自分で作り上げたシステムには断固従わなければならない。一度でもこの道を外れると災難に巻き込まれる。わたしの財政の基盤は危機状態に陥り、やがてトランプで作った家のように崩壊するだろう

 

139.心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 長谷部誠

ドイツには「整理整頓は、人生の半分である」ということわざがある


日頃から整理整頓を心がけていれば、それが生活や仕事に規律や秩序をもたらす。だから整理整頓は人生の半分と言えるくらい大切なんだ、という味。  このことわざに、僕も共感できる


よくお酒が入ると相手の本音が引き出せるとも言うけれど、そういう考え方も好きじゃない。お酒の力を借りないと本音を言い合えないという関係がそもそも嫌だし、そんな状態で出てきた本音に価値を見出せない。  現役を引退したら、お酒に対する考え方が変わるかもしれないけれど、今はお酒は100%楽しむものとして、仕事とは完全に切り離しておきたい。こういう細かな線引きが心を整えるためにも必要だと思う。 8   子どもの無垢さに触れる。  僕の姉には、3歳になる娘と0歳の息子(現在は5歳と3歳)がいる。


イギリスの文豪トーマス・カーライルは、こんな言葉を残している。 「ハチは暗闇でなければ蜜をつくらぬ。脳は沈黙でなければ、思想を生ぜぬ」  まあ、僕の考えはこんなに哲学的ではないけれど、沈黙、すなわちひとりでいる時間はとても大切な時間だ


答えがないようなことを延々と考えすぎて、迷いが生まれているときにどう切り替えるか。そういうときに僕は身近なところにいる「頑張っている人」を目にするようにしている。  日本にいた頃で言うと、真夏の炎天下、工事現場で働くおじさん。  腕まくりをして汗を流しているおじさんを見ると、僕は何だかすごく熱くなる。きっと早朝から家族のためを思って頑張っているんだろうな。自分もああいうカッコ良さを身につけたいと思って、小さなことに悩んでいる場合じゃないとエネルギーがわいてくる。あとはお母さんが小さい子どもを自
に乗せて、一生懸命こいでいる姿も好きだ。僕はこのシーンが女性の魅力的な瞬間のひとつだとも思うし、パワーをもらえるのだ。  僕が気がつかないだけで、日々の生活は頑張っている人々の姿であふれているのだと思う。自分のことでいっぱいいっぱいにならず、そういう姿に気がつける自分でありたい


監督もある程度、流れというのが必要なのかもしれないと、このときに学んだ


別の章でも書いたが、カズさん(三浦知良)は会食していても、自分が決めた時間には切り上げるし、それは事務所の先輩、俊さん(中村俊輔)などもそうだと聞く


また、そういう準備不足の人間がひとりでもいると組織の士気にも悪影響を及ぼす。ドイツには、「箱のなかに腐ったリンゴがひとつでもあると、全部が腐ってしまう」ということわざがある。腐るとまでは言わないが、ひとりでも遅刻する人間がいると、組織としての集中力に雑音が生じると思


あくまで僕個人の意見としては、ゲームやインターネットに時間を費やしすぎるのはもったいないことだと思う。サッカーゲームをすれば、ピッチ
俯瞰して見ることができて、サッカーの役に立つという意見もあるかもしれないが、そうであったら、実際のサッカーの試合をテレビで観た方がよほど勉強になる。それに映画を観たり、読書をしたり、語学の勉強をするなどした方が、はるかに自分のためになる。  遊びたい気持ちも分かる。誰かに心の隙間を埋めてもらいたいと思う気持ちも分かる。でも、ほどほどにしないといけない。自分で自分にけじめをつけなければならない


しかし、そういう生活を1年近く送ったときに、僕はふとある“〝相関関係”〟に気がついた。まわりの選手を見ていると、夜遊びをして、たくさんお酒を飲んでいる選手ほど筋肉系のケガをする確率が高かったのだ。  もちろんこれは僕の主観で、データ的な裏づけもないし、もしか


しかし僕は知っている。難しい道ほど自分に多くのものをもたらし、新しい世界が目の前に広がることを。  最初の岐路は高校受験だった。僕
両親の誕生日には必ず電話をしたり、プレゼントを贈るので、友達からは「オマエはマメだよな」と言われることがある。けれど本当に感謝する気持ちがあれば、お世話になっている人のために何かすることを面倒に思ったりはしないはずだ。少しでも時間や労力を取られるなあと感じたら、それは心から感謝していない証拠かもしれない。  感謝する能力は意識次第でいくらでも伸ばせるし、それに感謝は自分のためでもある。もし自分が感謝の気持ちを忘れなければ、まわりがどんどん自分にポジティブなエネルギーをくれるはずだ。周囲から助けてもらえる選手と助けてもらえない選手では、成長スピードに差も出る。少し観念的だけれど、関わる人すべてを幸せにするつもりで働けば、その気持ちは結果として還ってくる。僕はそう信じている


時折、もっと豪放に生きてみたいと憧れることもありますが、自分自身の内なる弱さを認め、それと向き合って生きていくというのが自分に向いてい
と考えています。よく弱さを認めるのも強さであると聞くことがありますが、本当にそのとおりです。強がってばかりいてもすぐに一杯いっぱいになってしまいますし、自分の弱さを知ってこそ、人は他人に優しくなれるのではないでしょう

 

138.営業は「洗脳」 一瞬でお客様を支配する禁断の営業術 苫米地英人

それは、実際の〝営業〟活動をせずに営業活動をするのと同等もしくはそれ以上の効果を生み出すことに成功していたからなのです。具体的には、情報空間(バーチャルな空間、思考空間)も含めた意味での他者との空間、臨場感空間において、私がその空間を実質的に支配できていたということです


あなたがどんな商品を扱っていようとも、営業という仕事をしている以上(本来であれば、営業だけでなく、企画、開発、生産などの仕事はすべて)、あなたは「お客様の未来」を売っているのです。もちろん、お客様が買いたいと思うのは、それを買うことによって得られる「幸せな未来」です


それは、その商品を手に入れた自分が、その商品によってハッピーになっていると思えたときなのです。つまり、商品を手に入れることが主目的ではなく、商品を手に入れたときのハッピーな気持ちを手に入れたいのです


つまり、ものが売れないということは、お客様がその商品を手に入れることで未来のハッピーを得られるというストーリーが描けていないということになります。ハッピーになれるストーリーが描けていないからこそ、「そんなものいらない」と言われてしまうわけです。  ということは、もしあなたがお客様のハッピーな未来というストーリーを描いて、相手に納得させることができれば、必ず売れるということを意味します


人間の認識というのは五感から得られた情報でできています。情報である以上、書き換えが可能です。人間の認識を何らかの操作によって別の認識に換えてしまうことを「内部表現の書き換え」と言います。  この操作は自分に対しても他人に対しても可能です。営業に向いていない自分という内部表現をトップ営業マンの自分に書き換えることもできますし、あなたが売っている商品にまったく興味がなかった人の内部表現を書き換えて、その商品がほしくてほしくてたまらない状態にすることも可能です。とっかかりとしての雑談だけでもできるように、一瞬であなたに好感を持つように内部表現を書き換えることも可能なのです


自分の内部表現を変えるのは、自分の中にある記憶の解釈を変えるだけでできます。  人間の自我というのはそれまでの記憶から成り立っています。記憶も内部表現の一部ですから、解釈とか評価というフィルターを通した形で記憶されています。この解釈や評価を変えてやることで自分自身を変えることができ、同時に自分の周りの世界を変えることができるわけです(具体的な話は第四章で詳述します)


営業の話で言えばまず、相手が居心地のいい、うれしい世界を想定してあげて、その世界の一部として売りたい商品を置いてあげます。この世界を想定して、相手の6つのモーダルチャンネルにそれを示してあげればいいのです。  


いま、6つのモーダルチャンネルの話をしましたが、実は6つの中でも強弱があります。個人差はありますが、一般に視覚が最も強く、言語が最も弱いのです


だからこそ、家のモデルハウスがあったり、車のショールーム試乗会があったりするわけです。言語で説明するのではなく、実際に見て、触って、エンジンの音を聞いたりして(家や車をなめる人はいないと思いますが、商品が食べ物の場合の試食会だったらあり得ます)、イメージを広げてもらうのです。  普通の営業ならば、写真を見せるというのが一般的でしょう。そのとき、できるだけ言語は介在させないで、相手が自分でイメージするように操作するのがいいでしょう


たとえば、先ほどの例のような家族でキャンプに出掛けることに幸せを感じる人に、「この車なら家族がゆったり乗れる上にあれもこれもそれも全部積めるので、キャンプに最適です」と言う代わりに、そういうシーンの写真を目の前にポンと置いてあげるほうがいいわけです


人がエッチをしたがるのはエッチが気持ちいいからではありません。気持ちいいときにだけ報酬系の脳内伝達物質が働く(エッチをする前にはドーパミンが出ない)なら、太古の昔、肉食獣がそこにいるかもしれない状態の中で、あえて生命の危険を冒してまでエッチをするというのは不自然です。  なぜ太古の人類は無防備な状態で生命の危険を顧みず、エッチをしてきたのか。それはエッチが気持ちいいからではなく、エッチができるかもしれないという気持ちになったときに脳内にドーパミンが出て、期待と興奮を呼び起こすからなのです。  つまり、脳内伝達物質によるプライミング状態をつくれば、まだ手に入れていないのに手に入れたときの快感を期待と興奮をもって感じることになるわけです。  


なぜなら、「競合製品がある」とお客様に思わせないことが営業で成功するポイントだからです。「競合製品がある」と思われてしまったら、そこから先はファクトベースの戦いになります。つまり、スペックなどの比較によって本当に商品力のある商品かどうかが問われることになるわけです


何度も言いますが、「相手の未来の幸せ」を売るのであれば競合製品はありません。競合製品がなければ、そもそも接待など必要ないのです。 


つまりこの「僧侶お布施の法則」のように「むしろ高いお金を出したほうがハッピーになれる」と思わせることができれば、価格が折り合わないなんてことははじめからありえないわけです。  


もっと露骨に脅すケースもあります。霊感商法と呼ばれるものがそうでしょう。 「このツボを買わないとあなたは不幸になりますよ」などと言って恐怖心をあおります。  また、少し前に問題になったリフォーム会社の営業なども同様です。 「柱が腐っています。リフォームしないと家が崩れますよ」とか「家がゆがんでいます。地震が来たら間違いなく倒壊します」などと言って脅し、必要のない修理をさせてしまうという手口です。  このように脅しというのはやり方によっては強い効き目を発揮するのですが、営業としてはフェアじゃありません。霊感商法や不要なリフォームなどは完全に詐欺です。  ですから、実際に営業マンがやるべきことは脅しではありません。  ラポールを生み出すためには、強い臨場感空間を共有すればいいわけです。脅しは臨場感空間を共有するためのひとつの方法ではありますが、そんなアンフェアなことをしなくても臨場感空間を共有する方法はあるのです。


暗示はもっと直接的なものでもかまいません。「今日こそはよろしくお願いしますよ」とか「今日は絶対に契約をいただきますよ」とか、あるいは「今日は、すばらしい商品をお持ちしたんですよ」なんていうのでもいいと思います。これによって相手は「ああ、今日は契約をしないといけないんだな」「ああ、今日はすばらしい商品を持ってきたんだな」と思い込んでしまうのです


友達関係とか言うことをきかないとか、そんなレベルならまだいいのですが、「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉のように敵対感情が出てくると「あいつは俺の信頼を裏切りやがった」という思いが膨らんでしまいます。こうした敵対感情を〝ネガティブラポール〟と呼んでいます。このネガティブラポールのマネジメントに失敗すると、臨場感空間の支配者だったにもかかわらず、被支配者に裏切られてしまうことがあるのです。  イエスの12人の使徒の1人、イスカリオテのユダがイエスを裏切り、イエスは磔となりますが、心理学分析として言えば、私はこのユダの裏切りストーリーはイエスがネガティブラポールのマネジメントに失敗した出来事として解釈できます。だとすると、イエスほどの人物ですら失敗してしまうほど、ネガティブラポールのマネジメントというのは難しいということになります


たとえば小泉純一郎元首相がいい首相だったか、悪い首相だったかと評価しようとしても誰もできるはずがないのです。「郵政を民営化し、道路公団を民営化したから、いい首相だった」とも言えますし、「郵政を民営化して郵貯の金を外国に流れるようにし、道路行政も核心部分はまったく改革することができなかった」とも言えるでしょう。  同様に、マザーテレサの活動は成功したのか、失敗したのかと問われても答えようがありません。「彼女は貧しい人々を救う活動をしたり、世界平和のための活動をし、多くの人が救われた」と考える人は大成功だったと言うでしょう。しかし、「彼女があれだけ頑張っても世界から貧困も戦争も差別もなくなっていない。むしろ、マザーテレサ以前と以後を比較してみると、アメリカはより悪い国になってしまった。結局、影響を与えられなかった」と考える人は失敗だったと言うかもしれません。  つまり、ある出来事、あるタスクに対して、他人が客観的に評価できる基準というのは存在しないわけです。ある見方をすれば「いい」となり、別の見方をすれば「悪い」となるのです。  これがわかっていないと、ある基準(それすらも怪しいですが)によって「おまえはダメだ」と評価されただけで「ああ、私はダメなんだ」と思い込んでしまうことがあるのです。本当ならできたはずのことでも、「おまえはダメだ」「おまえにはできない」という評価を受け続けてしまったがために、やる前から「私にはできない」と本気で自分に自分の限界を与えてしまうのです。 


これは仕事上の話だけではありません。人生においてなんらかの夢を抱くことはとても大事なことですが、夢を抱こうとした瞬間に自分で「いや、でも、私には無理なんだ」と言って諦めてしまうこともあるのです。それはあまりにも悲しいことだと思います


たとえば子どもの頃、親とレストランに来て「騒いだらダメ」と叱られ記憶があるとします。これがその人の中で大きくなってしまうと、人前で大きな声を出したり、大きな音を出したりすることができない人間ができあがってしまいます。つまり、歌手になりたいとか、政治家になりたいと思っても、この記憶が邪魔をして、人前で歌ったり、演説したりすることができない人になってしまうので


叱られたのではなく、レストランでおとなしくしていたことをほめられた場合も同じです。レストランでは騒いではいけない、おとなしくしなければいけないと言われているのと同じだからです。  子どもというのはレストランだろうと、電車の中だろうと、道端だろうと、基本的に騒ぐものなのです。つまり、騒ぐに決まっている存在をわざわざレストランに連れてきた親の行為自体が間違いです。自分がレストラン食事をしたいからという親の欲望を満たすために、本来、騒ぐのが当然である子どもを騒がせないようにしようとしているだけで


もし、そう考えるのであれば、それを子どもに伝えて、納得してもらうべきなのです。 「食事中に立ち歩いたり、騒いだりしたら、消化に悪いし、おいしくないでしょ」と言えばいいのです。  しかし、たいていの親はそうはしません。 「こら、騒ぐな!」とか「おとなしくしなさい!」などと怒鳴りつけてしまうのです。これはまさにドリームキラーそのものです。  親が騒いでいる子どもを叱るのは、自分が恥ずかしいと思うからです。他の客に「あの親は子どもを騒がせる親だ」と思われるのが恥ずかしいのです。実際には周りは、子どもを怒鳴りつける行為のほうに眉をひそめているにもかかわらず、親は怒鳴りつけるのが正しいと思ってしまっているのです。本当は自分の煩悩を子どもに押し付けているだけなのに、それが教育だなどと勘違いしている親があまりにも多いのには困ったものです。  怒鳴りつけたとき、親が「私が恥をかくから騒ぐのはやめなさい」と言っているのだと、子どもは敏感に察知します。そうすると、子どもの無意識は「人前で自分がやりたいことを自己主張することは恥ずかしいことなんだ。少なくとも私の大好きなお父さん、お母さんは恥ずかしいって思うんだ」と感じ取ってしまうのです


だから、人前で発言できない大人とか、初対面の人に営業をかけられない大人を作るための第一歩は、レストランでおとなしくさせることから始まるのです


レストランの例で見たように、多くの場合、親や教師が子どもに言うことは子どものためではなく、自分のためなのです。また、本気で子どものためと思って言っているとしたら、親や教師が社会に完全に洗脳されてしまった結果だと言えま


レストランで騒ぐような子は反社会的な人になってしまうと思って、子どものために叱るという論理ですが、それこそが社会に洗脳されているのです。社会的な行動こそが正しくて、反社会的な行動は悪だと洗脳されています。社会そのものが絶対的に正しいのであれば、そういう論理も成り立つかもしれません。しかし、今の親たちが作り上げたこの社会が絶対的に正しと果たして言えるでしょうか。  社会福祉のための年金はどこへ行ったかわからない。便利な道路をつくるための財源を無駄遣いしまくる。日本を守るはずの防衛省事務次官が賄賂をもらいまくる。こんな社会が正しいなんて誰が言えるでしょうか。  社会は権力ピラミッドの上へ行けば行くほど腐っています。人にとって最も身近な上の人は親です。つまり、親のほうが子どもよりも正しいという論理は成り立たなくなっているのです。  むしろ、社会に洗脳されていない子どものほうが正しい可能性が極めて高いと言えます


ですから、評価関数が変わるということは自我が変わることを意味します。自分が決めたゴールとか、今あるべき現在にとって、過去の出来事が重要かどうかがわかってくるので


このラベリングによって自我を変えると、自分を縛っているものから自由になることができます。営業の仕事をする上で、自分が苦手だとか、これは不得意だと思うことがあったら、それは過去にドリームキラーによって刷り込まれた可能性が高いわけです。それを取り除いてやれば、苦手意識とか不得意だと決め付けて逃げるといったこともなくなっていきます。  こうして評価関数を変えていくことで、自由度の高い営業マンになれます


頑張らずに自然とやる気になってしまうサーモスタット式モチベーションアップ法。ポイントは「目標を達成している未来から逆算した現在の自分」を「細かく、リアルに」イメージすることです。


この本能をコントロールする方法は主に二つあります
ひとつは新しい場所、新しい人間関係であっても、これまで知っている場所、人間関係と何ら変わらないと頭で考えるというものです。どこへ行っても自分の家と同じように振る舞える人がいます。こういう人は初対面の人でも知人でも同じであるという見方ができるのです。そうやって、本能を思考でコントロールするのです


人間は抽象思考ができる動物です。どこへ行っても自分の家のように振る舞える人、初対面の人に会っても知人と同じような気持ちで接することができる人、こういう人を「抽象度の高い思考ができる人」と言います


抽象の反対は具体ですから、抽象度が低いものは具体度が高く、抽象度の高いものは具体度が低いとも言えます。  このとき、「六本木」をよく知っている人がまったく知らない「赤坂」や「新橋」に行って仕事をすることになったとします。知らない場所なので、ステータス・クオを維持したい本能がリスクを感知し、緊張したり、萎縮したりして、普段の力が出せなくなりがちです。しかしここで、「六本木だって赤坂だって新橋だって、同じ港区じゃないか。だったらよく知っている場所と何も違いはない」と思える人は緊張したり、萎縮したりしないのです。この考え方が抽象度の高い思考です。


キリスト教だ」「イスラム教だ」といがみ合っていても、もし「どっちも宗教じゃないか」と考えられれば、いがみ合う理由がなくなります。残念ながらそうならないのは、多くの人がこうした抽象思考をできずにいるからでしょう。  サッカーの試合はホーム&アウェイ方式といって、自分のホームグラウンドと相手のホームグラウンドの両方で試合をするのが一般的です。これは、サッカーではホームグラウンドで試合をするチームのほうが有利だと経験的に明らかだからです。これも、ステータス・クオが関係していると考えられます。  まれにアウェイのグラウンドでもパフォーマンスを落とさずにいいプレーができる選手がいますが、そういう人は「どこでやっても同じサッカー場じゃないか」という抽象思考が、無意識のレベルでしっかりとできている人だと言えるでしょう


このように、初対面の人に会うときでも「初対面でも知っている人でも、同じ人に違いないじゃないか」と抽象思考し、自分の無意識までしっかりとそう感じることができていれば、緊張したり、萎縮したりせずにすむのです。またはアウェイの場所を何度もイメージの中で体験してより慣れ親しんでおく、というメンタル=リハーサルの方法も脳内で抽象思考を行うのと同様の効果があります。  本能をコントロ


ホメオスタシス同調の話はすでに何度か書きましたが、自己実現している

人と会うことでその人とのホメオスタシス同調が起こり、あなたも自己実現しやすくなるはずなのです


正しい答えは「会社は株主のもの」です。これは資本主義の基本です。会社に関する法律である商法をきちんと読めばわかります。 


別に悪口を言うつもりはありませんが、これに対して松下幸之助は経営理念(綱領)の中で「社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す」と述べています。  逆説的ですが、この理念が最初から従業員を騙す目的で記されたのなら何ら問題はありません。経営者は社員を騙して奴隷として働かせようとするのが資本主義というものだからです。ですが、松下幸之助の場合、案外、本気でこんなふうに思っていた可能性があります。つまり、「企業は利潤追求ではなく、社会貢献に力を入れるべきで、利潤はその結果としてあとからついてくるものだ」と考えていた可能性があるのです。  これは株主資本主義のルールからすると反則なのです。もし本当に社会貢献がしたいのなら、ソーシャル・アントレプレナーの形態を取るべきであり、松下電器は株式を上場するべきではなかったでしょう


営業だけアウトソーシングするというパターンは、アメリカでは一般的です。VAR(バー=Value Added Reseller)という営業のプロ集団がいるのです。

 

 アメリカでは営業なら営業のプロ、企画なら企画のプロ、マーケティングならマーケティングのプロ、社長業なら社長業のプロというように、その道のプロがたくさんいます。完全に個人事業主で、今年はこの会社で働こう、次はここで働こうというようにして、会社を渡り歩くのです。もともと個人事業主なので、日本人がイメージする「会社を渡り歩く」ということとは少し違うかもしれま

 

137.瞑想入門 マインドフルネスに生きるための7つの秘訣 柳田知恵

瞑想とは、目をつぶり意識を内側に向けることによって、疲れた心をリセットする心のシャワーです。 「心も体も脳も、何もしない状態」を作ることで、人生が劇的に好転していきます


瞑想の心への効果は、「思いやりの増大」「道徳性の向上」「自信(自己重要感)の確立」「自己受容の拡大」「攻撃性の低下」「不安の減少」「人間関係の改善」「平常心の維持」「至福の経験」「緊張の緩和・リラックス効果」「他者に対する理解力・共感性の向上」などがあります


瞑想によって、自分の感情の状態を把握し、それを上手に管理調整することができるようになり、他者の感情の状態を知覚する能力も向上します。 そのため、瞑想を続けることによって、人への共感力はアップし、思いやりは増大、人間関係も良好になっていきます。 私自身、瞑想を日常に取り入れてから子育てにおいてもストレスなく子どもの心に寄り添えるようになり、常に包み込むような愛で子育てができるよになりました


人には潜在的な能力がたくさん眠っていて、その眠っている自分こそが、本当の自分。


本当の自分を、たくさんの「思い込み」や「固定観念」や「ルール」が取り囲んでいる。 だから、人は潜在能力を発揮することができない。 自分自身がそれを知ったとき、私は一つ一つその「思い込み」を捨て、本当の自分とつながって本心を大事にするようになりました


人は一般的にすべての能力の5~30%しか使えていない、と言いますから、潜在意識が占める割合がどれほど大きいかも想像できると思います。 そして、実は潜在意識というのは、今までの出来事のすべてが詰まっているデータベースのような場所


マントラ、とはサンスクリット語の神聖な言葉で「真言」とも言われています。 宇宙の始まりから存在していた音やエネルギーをもとにしているため、伝統的な瞑想で使うマントラの語句は人に伝えることもメモすることも許されていません


瞑想というのは、ただ目をつぶってリラックスすればいいのではなく、なるべく心と体と脳の動きを静かにして初めて大きな効果が得られます。 それは、つまりは五感(視覚、臭覚、聴覚、味覚、触覚)が機能していなくて、思考が働いていない状態に近づける必要がある、ということ。 ろうそくを見て視覚が機能していれば、意識は内側に入っていきませんし、座禅で体が痛ければ、集中することはできません。


同じように、願望を想像したり、なりたい自分をイメージしたりするのでは、思考が働いていますから、同じように深い場所にたどり着くことは出来ないのです


最近流行しているマインドフルネスは、基本的には呼吸に集中し「今ここ」に意識を向けていきますが、それだと思考は働いたままになってしまうため、マントラを使う瞑想法より効果が少なくなってしまいます


例えば、寝る前に仕事の問題について解決策を考えながら眠りについたのであれば、寝ている時も脳は動き続けて悩んでいるのです。 脳が動き続けている状態であれば、8時間ゆっくりと寝たとしても、脳の疲れはとれずに、疲労はたまり続けていきます。 そんな時には、これから紹介する寝るときの瞑想法を使ってみてください。


寝る前に布団やベッドの上に座り、静かに心を落ち着けて、どちらでもいいので片方の手を目の前にかざします。 そして、その手をじっくりと見つめ、目を閉じても目の前に残像を感じるようにします。 目をつぶっても手の残像が残る状態になったら、何も考えずに、ただその残像を思い浮かべてください。 そして、心の中がその残像だけになったら、横になってそのまま眠ります。


もし、途中で雑念が浮かんでしまったら、もう一度、目の前に手をかざして残像を見ます。 これは、目をつぶって残像に意識を向けることで、自然と脳の中が無になる、という寝る前の瞑想テクニックです。 この方法で眠ると、翌朝起きたときの状態にびっくり。 頭がスッキリとして疲れが残ることがなくなってきます。 以前よりも熟睡できるようにもなったり、睡眠の質も向上したり、といいことばかり。

136.沢庵 不動智神妙録 池田諭 訳

とらわれる心が迷い→無明住地煩悩

敵の心を意識的に知ろうとすれば、かえって敵に心を見透かされる。

 

とらわれた心は動けない

千住観音の不動智

135.負けない奥義 柳生新陰流宗家が教える最強の心身術 柳生 耕一平厳信

凌駕すべきは、他人ではなく他ならぬ自分自身。相手との争いに勝利するためではなく、自身の心と向き合い、昨日の自分に勝てるように日々向上を目指して努力する大切さを説いているのです。  石舟斎は同じく家憲で「これを仰げば弥々高


どんなに努力をしても次々と険しい山々、超えるべき高い目標が現れてきます。けれど、高き頂に挑み続ける気持ちを死ぬまで忘れてはならないのです。


ライバルを外に求めるのも悪くはないのかもしれませんが、それでは相手に左右される部分も出てきます。他人に惑わされないためにも、自分自身に向き合って心身を高めていく。それが柳生新陰流の流儀なのです。  昨日の自分に今日は勝つ。その精神でつねにベストを尽くし


他人ではなく、昨日の自分に勝ちなさいという家憲のさらにその奥には、自分と他人という区別を乗り超えろという教えがあります。  その背景には、柳生新陰流が持つ壮大な世界観があります。  


は石ころなどの無生物と生き物を区別しますが、石ころも生き物も元を正せば出所は同じ。宇宙や地球を構成している元素から作られています。まして同じ人間同士ならもっと近しい存在です。  あえてそういう壮大な視点に立って物事を俯瞰すると、大自然のなかでは、敵と味方、あなたとわたしという二元的な対立関係はなくなるのです。  これは「自他不二」「万物同根」という考え方で、仏教の教えにも通じる面がありますが、この境地こそ当流が最終的に目指すところなのです


勇気は「浩然の気」を養うことにも通じます。  浩然の気とは孟子の言葉で、「天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気」(大辞泉)です。  孟子は浩然の気の説明として「きわめて大きく、きわめて強く、まっすぐな正しい心で養って、損なうことがなければ、天地の間に充満する。宇宙自然と合一した境地だ。その気は正義と人道と一体となっており、これがなければ気は飢えしぼんでしまう。気は義を繰り返し行うことで生じるもので、たまに義にかなうことを行ったからといって得られるわけではない。自分の行為のなかに、心にやましい物があれば気は飢えしぼんでしまう」と説いています。  


勇は、自身の良心に従い、自らを厳しく律する行いをコツコツと積み重ねて養っていく必要があります。これは武道の基本でもあります。  稽古中に留まらず、日常生活においても良心に恥じるような行いを謹みます。  孟子が指摘しているように、一度でもずるをするとそこで緊張感が切れて気持ちが萎えてしまうので、誰にも恥じることのない生活態度を生涯続けます。そうしてようやく知、仁、勇が得られるのです


このように柳生新陰流兵法の極意は、儒教で言う「五常の徳」、すなわち仁(思いやり)、義(人として行うべき正しい道)、礼(礼儀と感謝の心)、智(物事の善し悪しを理解して判断すること)、信(ウソをつかないこと)をいつも心掛ける点にあります。  また、「温良恭倹譲」、すなわち温かみ、素直さ、恭しさ、控えめさ、他人を立てることは当流の掟でもあり、人材育成の指針となります


この三つについては「怒りや恐れといった感情に左右されない純粋な心こそが、敵の千変万化の働きに対して自在に応じる原動力になる」という解説がありま


敵と味方、生きているものとそうでないものを区別しないのが、誰しもが始めから秘めている本来の心であり、その境地に達したときに自分が主導権を握るというのです。 不断の心に持つ


相手に対する恐れ、攻撃したいという焦り、防ぎたいという受け身の心があると、心が固まって敵情を的確に摑めなくなり、敵を働かせてから勝ちを得るという活人剣ができなくなります。そこで、この三つの心を相手に捧げて無心になりなさいと教えているのです


『始終不捨書』では、戦いや稽古の場のみならず、四六時中、日常生活のなかで危ながる心をなくして、平常心で過ごせるように精神的な鍛錬をしなさいと教えています。普段からつねに覚悟しておくと、いざというときに動揺しないということです


つられるのではなくて、主体性を持ち合わせて動きなさいと注意してい


斬り相いのときに闘争心が湧いてくると、「こう戦いたい」「こう斬りたい」「こう防ぎたい」という感情が出てきます。しかし、そのように激しい私情が生まれると素直な気持ちでいられなくなるので、相手の意図を察するゆとりがなくなります。  負けたくない、どうしても勝ちたいという気持ちがあると心に波紋が広がり、曇りのない鏡に映すように相手の心がくっきりとは見えてきません。


要以上の闘争心は無用なのです


創造的な稽古を繰り返すと、昨日まで見えなかったものが見えてくる気づきの瞬間が訪れます。己の鍛錬は果てしなく、続く山々は険しいので、すぐに次の課題が見えてきます。しかし、つねにポジティブで強い問題意識があれば、次の答えも必ず見つかるのです。


目で見て(視)、心に照らして見て(観)、そして推し測る(察)。兵法でも同様に目で見て、心で見て、状況を推し量るのが大切だと言っているのです。 「抱三ツ」は、石舟斎の『没茲味手段口伝書』にも次のように出てきます。 「空之拍子之事付抱三ツ有」  こちらの「抱三ツ」は、敵が打ってくれば押さえる、引けばついていって


勝つ、働きがなければわが方から打って勝つという三つの攻め方を指します。  迎え(誘い)を出すと、それにつられて相手の心のなかに誘いに乗ろうという兆しが生じます。その兆しが生じたところを斬る気配を感じさせない「空の拍子」で打ちま


心理的なコミュニケーションで優位に立つと、斬り相いでも優位になります。  自らの心は曇りのない鏡のように相手の闘争の情を映して、こちらは闘争の情がない処女のような柔らかな心を相手に移します。  斬り相いとは闘争の情と情とのぶつかり合いで、情が強い方が勝つと考えるのが普通でしょう。しかし、闘争の情をみじんも感じさせず、処女のような無垢な心を相手に投げかける


理解できる範囲が広がれば、また違う世界が見えてきます。習い、稽古、工夫と進んだら、再び習いに戻って次のレベルへ挑む。その繰り返しで不断に努力しながらさらなる高みを目指してほしい。  それが、始まりと終わりがある直線ではなく、始まりも終わりもない円上にある三つの点に込められた思いでしょう


千五百年ほど前に書かれた中国の兵法書孫子』に「昔から戦いに巧みな者は、敵が味方を攻撃しても勝てない態勢を作っておいてから、敵が態勢を崩して味方が攻撃すれば勝てる態勢になるまで待つものだ」とある通りです。  


敵の拍子に左右されず、いわば敵を捨てて独往独来、主体的になって戦いなさいというのが、この項目の主眼です


最後の「外ルル物一ツ有」というのは、心を意味しています。心が外れる、すなわち心が乱れるのが最も悪いと諭しているのです


は勇気、身がかりは身体的な教えのことですが、それ以外の技術的な教えを捨てて超えろと示唆しています


そういう人間の習性を踏まえて、学ぶことで失うものがあることを理解して、学びを超脱する姿勢を持つように戒めているのです。  学んだ内容を思い切って一回捨てるくらいの覚悟で臨まないと、目に見えない教則でがんじがらめに縛りつけられるように、心身ともに動きが取りにくくなります。先達はそれを恐れたのです


剣術では、身体と太刀、手と足が一体となり、バランス良く動くのが理想です。  ところが、人間というのは相手を斬りたいと気がはやると、身体と太刀、手と足がバラバラになりがちです


たとえば、日本人は食事で箸を使うとき、その存在を意識していません。手と箸が一体化しているからこそ、魚から小さな骨を外すことができま


し、ご飯粒だって一粒ずつつまめます


太刀という道具と自らを一体化する「刀身一如」、心と身体を一つにする「心身一如」こそが性自然の目指すところ。動きを作ろうと意識した段階ですでに自然な働きから外れています。人として自然に備わったあるがままの働きを尊ぶという意味で、それを「性自然」と称するのです。


太刀を持たない無刀のときに、刀を持つ人の気持ちになる。それは相手と自分が一つになるということで、これが「自他一如」です。  この境地に達しないと無刀は成就できないのです。  相手は太刀を持ち、こちらは無刀という不利な状況下では、なかなか勝機をつかむことは望めないでしょう。けれども、そのときに必要以上に焦ったり、不利に思ったりせず、敵の気持ちになり、斬りやすいように誘いを出し、斬り込ませて、そして対応するのです。  


持たない分、相手の気持ちを汲み取らないと勝機は得られない。無刀という究極のシミュレーションを介して、真剣勝負の本質をよく考えてみなさいということです。  よろずを無刀斬り相いの状況は目まぐるしく変わります。でも、戦いの流れに逆らわずにその本性を悟れば一喜一憂することもない。そういう心持ちでいないと相手に対応できないという戒めです